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【完全解説】スティーブ・ジョブズ「PCに革命を起こしたアップル創業者」

スティーブ・ジョブズ / Steve Jobs

PCに革命を起こしたアップル創業者


概要


生年月日 1955年2月24日
死没月日 2011年10月5日(56歳)
国籍 アメリカ
学歴

・ホームステッド高等学校

・リード大学中退

職歴

・アップル社(共同設立者、CEO、会長)

・ピクサー(主要株主、CEO)

・NeXT(創立者、CEO)

・ウォルト・ディズニー・カンパーニー(委員会役員)

宗教

スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブ(1955年2月24-2011年10月5日)はアメリカの情報技術に関する起業家、また実業家。アップルCEO、会長、共同設立者。ピクサーCEO、主要株主。ウォルト・ディズニー・カンパニー取締役会メンバー。NeXT会長、CEO、設立者。

 

ジョブズは一般的に1970年代から80年代のマイクロコンピューター革命の開拓者であり、またスティーブ・ウォズニアックとともアップルを設立した人物として知られている。

 

ジョブズ公式の自伝作家ウォルター・アイザックソンは「完全に対する情熱を持つ起業家で6つの産業(パソコン、アニメ映画、音楽、携帯電話、タブレット・コンピューティングおよびディジタル出版)を劇的に変革を起こした」とジョブズを説明している。

 

ジョブズといえばカウンター・カルチャーのライフスタイルや哲学である。これは生まれ育ったサンフランシスコ・ベイエリアの風土との関係が深い。ジョブズはリード大学に進学するも中退し、1974年に自己啓発と禅の修行を目的にインド旅行をするが、当時のカウンター・カルチャームーブメントの影響が大きい。また、FBIによるレポートによれば、ジョブズは大学滞在時にマリファナやLSDなど非合法ドラッグを使用していたという。

 

また、ジョブズといえば「ミニマル」の思想であるが、そこにはジョブズが養子として出された複雑な家庭環境や、近所の低所得者向けでありながらシンプル・モダンで機能的な家を提供していた不動産屋、そしてカウンター・カルチャーで流行したの影響などがある。

 

1976年にウォズニアックとともにアップルを共同で設立し、アップルⅠを開発・販売。後継機のアップルⅡは、初めて最も成功した量産型パーソナルコンピューターとなり、二人は富と名声を獲得。1979年にゼロックスのパロアルト研究所でマウス操作とグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)で動作可能なコンピュータ「アルト」を視察して影響を受ける。

 

1983年に発売したアップルLisaの失敗のあと、1984年にマッキントッシュを発売して大成功をおさめる。マッキントッシュはGUIを利用した最初の量産型コンピュータであるの加え、1985年に発売したベクタ形式が特徴の最初のレーザープリンター機の「レーザーライター」とともにDTP産業で急激にシェアを伸ばした。しかし、ジョブズは社内争いの後、1985年にアップルを解雇される。

 

アップルを退社したジョブズは、数人のメンバーらと、高等教育やビジネス市場に向けに特化したコンピューター・プラットフォームの開発会社NeXTを設立。1986年にジョージ・ルーカスの会社ルーカスフィルムのコンピューターグラフィック部から派生した組織にジョブズは1000万ドルで買収して「ピクサー」を設立し、VFX(視覚効果)産業の発展に貢献。

 

1997年にアップルがNeXTを買収し、ジョブズはアップルに復帰。再びCEOに就く。倒産の危機に瀕していたアップルは収益性の改善に成功。1997年からは“Think diffrent”という広告キャンペーンを打ち、ジョブズは主要アップル製品のインダストリアルデザイン担当者となるジョナサン・アイブと親密に連携し、製品ラインに対して大きな影響を与えるようになった。

 

また、現在のMacのOSで、iMac、iTunes、Apple Stores、iPod、iTunes Store、iPhone、App Store、iPad、Mac OSに利用されているMac OS Xシリーズは、NeXTのNEXTSTEPのユーザ・インタフェースの特徴を多くひき継いだものである。

チェックポイント


  • アップル創業者
  • パーソナルコンピュータに革命を起こした
  • カウンター・カルチャー(禅、LSD、ヒッピー文化など)の影響大
  • ミニマリスト
  • 6つの産業で変革を起こした

パートナー


略歴


ジョブズの両親


ジョブズの養父であるポール・ラインホルド・ジョブズ(1922-1993)は、ウェスコシン州のジャーマンタウンのカルヴァン派の家庭で生まれ育った。父親は農業を経営していてアルコール依存症で暴力的だった。

 

ポールの若い頃の外見はジェームズ・ディーンによく似ている。身体にタトゥーが入っており、高校を中退。1930年代は仕事の都合で数年間、アメリカ合衆国中西部全体を行き来していたという。ポールは最終的に機械工としてアメリカ沿岸警備隊に就職。

 

第二次大戦後、1946年にポールはアメリカ沿岸警備隊をやめ、サンフランシスコに移動。そこで妻となるクララ・ハゴピアン(1924-1986)と出会い、10日後に結婚したという。クララはアルメニア移民の娘でサンフランシスコで育ち、すでに結婚していたが、夫は第二次世界大戦で戦死して未亡人の状態だったという。

 

1952年に二人はサンフランシスコのサンセット地区に移動。ポールは信販会社の「レポマン」となった。また趣味としてポールは中古車を改造していた。クララは子宮外妊娠を経験したたため子どもには恵まれず、二人は1955年ごろに養子を迎えようとしていた。

 

スティーブ・ジョブズの実親であるアブドゥルファター・“ジョン”・ジャンダーリ(1931年生まれ)はシリアのホムス出身でムスリムの家庭で育った。ジャンダーリの父は一代でミリオネアになった実業家で大学には通っていない。母親は伝統的な専業主婦だった。

 

ベイルート・アメリカン大学留学中、彼は過激な政治活動家で、そのため刑務所で過ごしたこともあった。ジャンダーリは政治学の勉強をしていたが、結局、経済学と政治家学を勉強することになった。

 

ベイルート・アメリカン大学卒業後、米国ウィスコンシン大学政治学科でティーチングアシスタントをしているときに、ジョブズの実母であるジョアン・シーブルと出会う。親はドイツとスイスのカトリックの家系でウィスコンシンで農場を営んでいた。博士課程でジャンダーリはシーブルにティーチングアシスタントをしていたが、二人は同じ歳だった。シーブルの両親は娘が好きな男がカトリックではないため交際に強く反対。付き合うと娘を勘当するとまで脅迫もした。

 

シーブルは1954年に妊娠。二人はシリアのホムスのジャンダーリの家族と夏を過ごした。ジャンダーリは「ジョアンナとはとても愛しあっていたが、残念なことに彼女の父親は暴君で、シリア出身の私との結婚を許さなかった。それで彼女は私に子どもを養子縁組に出してほしいといった」と話している。

 

当時、婚外子やシングルマザーに対する差別意識が強く、また中絶が違法で危険が高かっただったというのも大きな理由であるとされている。1954年のアメリカでは、養子縁組という選択のみしか女性には残されていなかった。

ジョブズの養父ポールとジョブズ3歳。
ジョブズの養父ポールとジョブズ3歳。
ポール・ジョブズとクララ・ジョブズ。
ポール・ジョブズとクララ・ジョブズ。
ジョブズの実親。アブドゥルファター・ジョン・ジャンダリ。
ジョブズの実親。アブドゥルファター・ジョン・ジャンダリ。
ジョブズの実の妹。モナ・シンプソン。
ジョブズの実の妹。モナ・シンプソン。

幼少時代から中学生まで


スティーブ・ジョブズは1955年2月24日サンフランシスコで、ウィスコンシン州のドイツ系移民の娘ジョアン・シーブルと、シリアから来たイスラム教徒の留学生アブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリとの間に生まれた。

 

ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため、生後、すぐにスティーブは養子に出すことになる。養子縁組におけるシーブルの条件は「カトリックであること、大学を出ていること、裕福であること」だった。当初は弁護士の家庭に引き取られる予定だったが、女の子がいいと断られてしまう。

 

そしてポール・ジョブズとクララ・ジョブズに引き取られることになる。しかし、ポールもクララも大卒ではなかったため、ジョアンは書類へのサインを拒否。赤ん坊がジョブズ家についても問題は解決しなかった。最終的にお金を貯めて子どもを必ず大学にやると養親や約束することで承諾。

 

ポールとクララは1957年にジョブズの妹パトリシアを養子にし、家族は1961年にカリフォルニアのマウンテンビューに移動。

 

生まれてすぐに「捨てられ」、同時に養子縁組として「選ばれた」ジョブズの境遇は、その後のジョブズの「捨てる」「独立心」の哲学となり個性となる。

 

幼少の頃スティーブは、機械工で壊れた車を引き取っては修理し、それを売る養父のポールから機械や車について手ほどきを受ける。スティーブがエレクトロニクスに触れたのは、父親の車いじりを通じてだった。

 

またスティーブの実家のあたりは、安価な住宅を低所得者に数多く販売していたアイクラー・ホームズの住宅が数多く建てられている場所で、そのこぎれいなデザインとシンプルなセンスに多大なスティーブは影響を受ける。10歳までにジョブズにエレクトロニクスに入れ込み、近所に住んでいる多くのエンジニアと仲良くなった。しかし、同世代の子どもと仲良くなるのは難しかく、クラスメートから“一匹狼”と見られていた。 

 

小学4年生が終わる頃、ジョブズは知能検査を受け、高校2年生レベルの成績を上げる。この結果、ジョブズの知能が並外れていることがわかり、1年飛び級で進学する。しかし飛び級はつらい経験となり、ひとつ年上の子どものなかに放り込まれたジョブズは、孤立し、いじめられることも多く、7年生のなかばで転校することになる。また13頃からジョブズは教会に通うのをやめるようになる。

 

1967年にジョブズの一家は、カリフォルニア州ロスアルトスのクリストドライブにあるスリーベッドルーム付きの家に引っ越しをする。カリフォルニアのクパチーノ連合学区で最も優等な地域だった。また、マウンテンビューの家のときよりも周囲に多くのエンジニア家庭が住んでいた。クパチーノ中学の同級生にエレクトロニクス友達のビル・フェルナンデスがおり、彼は引っ越しの最初の友達だった。

 

フェルナンデスはのちに「8年生はみんな風代わりなジョブズが嫌いだったけど、自分1人だけは彼の数少ない味方だった」と話している。フェルナンデスはのちにジョブズに18歳のエレクトロニクス友達でアップル共同設立者のスティーブ・ウォズニアックを紹介することになる。ウォズニアックはフェルナンデスの近所に住んでいたのだ。

 

1968年半ば、ジョブズが13歳のときヒューレット・パッカードの工場で組み立てラインのアルバイトをする。CEOへ電話をして仕事に就いたという。

 

中学を卒業後、スティーブはホームステッド・ハイスクールに進学。1960年代末のカウンターカルチャーにどっぷりはまった年上の友だちが多く、ちょうどその頃はギークの世界(オタク)とヒッピーの世界が重なろうとしていた時代だった。

 

そんな時期に過ごしたジョブズは、数学、科学、エレクトロニクス、アマチュア無線、LSD、カウンターカルチャーに関心を持ち始める。また高校1年が終わったころからHP(ヒューレッド・パッカード)の工場でアルバイトを始める。高校2年から3年にかけてマリファナをはじめる。

 

「自分はエレクトロニクスが大好きなギークであると同時に、文学やクリエティブなことが好きな人文系の人間らしい」と思うようになる。音楽をよく聞くようになり、シェイクスピアやプラトンなど、哲学や芸術にも関心を持ち始めた。当時は『リア王』が大好きだった。ほかにメルビルの『白鯨』やディラン・トマスの詩もお気に入りだった。

ロスアルトスのジョブズ一家の家。
ロスアルトスのジョブズ一家の家。

天才エンジニア“ウォズ”


1971年、アップルの共同設立者の一人で、 Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発した主要エンジニアとなるスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。


エレクトロニクスの知識に関してジョブズなど足元にもおよばないほどウォズは詳しく、ジョブズの専門知識を伸ばしてくれる人物だった。

 

ジョブズはすぐに好きになった。またウォズはジョブズと同じくコンピュータに対する興味のほか、音楽に対する情熱も共通していた。ジョブズがボブ・ディランに興味を持つようになったのもウォズのおかげだった。


1971年、ウォズとジョブズの協力体制としてその後に定着する事件が起きる。「ブルーボックス」事件だ。ジョブズとウォズは、長距離電話をタダでかける機械「ブルーボックス」を開発することに成功し、それを販売して利益を得た。アップル創業時の役割分担はこのときはじまったとジョブズは証言している。

 

ブルーボックス開発のきっかけとなったのは、「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていた1つの記事だ。ブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけることが可能になるというハッカーや電話フリークのための記事をウォズが見つけた。


ジョブズとウォズはブルーボックスを自分たちで作ることにした。2人は、AT&T(ベル社)の交換器が利用する周波数やトーンが書かれている資料をスタンフォード大学線形加速器センターで探し出し、ダイオードとトランジスタなどブルーボックスの部品を購入し、絶対音感を持つ音楽科の学生に手伝ってもらいつつ、ウォズがブルーボックスを製作した


最初は趣味で作って、ヘンリー・キッシンジャーのふりをしてバチカン宮殿のローマ法王へいたずら電話をしたりして、遊んでいただけだったが、ジョブズは売ればビジネスになると気づく。ブルーボックスの材料費は40ドル。ジョブズはこれを150ドルで販売することにした。明らかにフリーキング(不正行為)だ。バイヤーとして、ウォズは「バークレー・ブルー」、ジョブズは「オーフ・トバーク」というハンドルネームを使っていた。


「ブルーボックスがなければアップルもなかったと思う。それは間違いない。この経験からウォズも僕も協力することを学んだし、技術的な問題を解決し、製品化できるという自信を得たんだ」(ジョブズ)。


サブカルチャーとの出会い


1972年、ホームステッド・ハイスクールを卒業したジョブズは、ロアルトス山の小屋でアニメーション映画をいっしょに作っていた1歳年下のクリスアン・ブレナンと暮らし始める。この頃からLSDに親しむようになる。

 

1972年秋に、自由を重んじる校風とヒッピー的なライフスタイルで知られるリベラルアーツの私立大学リード・カレッジに入学。ジョブズは精神世界や悟りに関するさまざまな本に影響を受ける。とくに、サイケデリックドラッグ(幻覚剤)の作用と瞑想についてババ・ラム・ダスが書いたサブカルチャー誌『ビー・ヒア・ナウ』の影響を強く受ける。ダニエル・コトケとそのガールフレンド。

 

エリザベス・ホームズ、それにロバート・フリードランドらと行動するようになり、クリシュナ教寺院における愛の祭典に参加したり、禅センターが無料で提供するベジタリアン料理を食べにいったりした。

 

特に禅にはまり図書館に通って、禅に関する本をひたすら読むようになる。鈴木俊隆の『禅へのいざない』、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』、リチャード・モーリス・バックの『宇宙意識』、チョギャム・トウルンパ・リンポチェの『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って』などだ。

 

エリザベスの部屋の天井裏に瞑想室を作った。ジョブズにとって、禅宗を中心とする東洋思想に傾倒したのは一時的なものではなかった。ギリギリまでそぎ落としてミニマリスト的な美を追求するのちのアップルの姿勢は、皆、禅から来たものだった。

 

またジョブズは仏教にも強い影響を受け、抽象的思考や論理的分析よりも直感的な理解や意識が重要だと気づいた。ただ気性が激しかったため、解脱して涅槃にいたることはできなかった。心の安寧も、他人に対する厳しい姿勢も柔らぐことはなく、もっぱら美術的感覚のほうに東洋思想はジョブズに影響を与えた。

 

もう一冊、大学1年生のジョブズに大きな影響を与えた本がフランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓-現代人のライフ・スタイルを変える新食物読本』だ。この本で菜食主義に影響を受け、浄化や断食などの食事習慣を覚え、ベジタリアンとなった。

 

大学の授業ではカリグラフィーに興味をもった。ジョブズはデザインや外観などの美術的感覚を大事にするが、その美術的感覚はカリグラフィーの授業で身につけた。カリグラフィーを学ばなければ、マックに複数種類のフォントが搭載されることもなくなかったという。

 

菜食主義禅宗瞑想スピリチュアリティLSDロック、当時大学ではやっていたサブカルチャーの象徴となっていたさまざまなのものがジョブズのなかでひとつに交じり合っていた。これらのものがのちにエレクトロニクスギークと美術一体となって花開く日が来るわけだ。

 

ルール改変とシンプルの哲学


ジョブズは18ヶ月リード大学で過ごした後、1974年2月、ロスアルトスの実家に戻り仕事を探す。その頃人気だったビデオゲームメーカーのアタリ社を訪問し「雇ってくれるまで帰らない」と宣言する。こうして50人しかいないアタリの社員のひとりとなった。時給5ドルの技術作業員だった。

 

この頃から失敬な人ジョブズの評価は広がっていた。基本的にひとりで仕事をしていたにもかかわらず、たまに会うと、誰彼かまわず「大ばか野郎」とこき下ろしたからだ。

 

ジョブズはアタリで多くを学ぶ。ゲームの改良にも没頭し、ルールを自分に都合よく変えてしまうという技をアタリ社で学んだ。

 

同年、ジョブズはインドを旅行する。アシュラムと呼ばれるヒンズー教の修行所で、ラリー・ブリリアントという人物と知り合いになる。天然痘撲滅を目指して活動する学者で、のちにGoogleの事前事業部門とスコール財団を統括するようになる人物だ。ジョブズとブリリアントの付き合いはそれからずっと続く。

 

インドからロスアルトスに戻るとジョブズは本格的に自分探しを始める。毎朝、毎晩、瞑想を行い、禅を勉強し、その途中でときどき、スタンフォード大学へ物理学や工学の授業も聴講に行った。インドへの度はのちのちまで自分に影響を与えたとジョブズは語っている。

 

ジョブズはロスアルトス近郊で鈴木俊隆老師と千野弘文老師に出会う。ジョブズはここで熱心に学ぶ。弘文老師に出家の相談をしたが、事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つことは可能だから出家はやめたほうがよいと諭される。ふたりの関係はその後も長く、続き、17年後には弘文老師がジョブズの結婚式を執り行うなどしている。

 

1975年初頭、アタリ社にジョブズは戻る。ここでチップ数を削減してゲームを作る工夫を始める。チップ数を少なくできればボーナスが出ることもあった。ここでジョブズはチップを削減するため、ゲーム内容をできるだけシンプルにする術を身につける。

アップルⅠ


アップルⅠ
アップルⅠ

1975年3月5日、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが立ち上げたクラブの第一会合に参加したウォズが、マイクロプロセッサーの仕様書を見たきっかけにパーソナルコンピューターのビジョンを思いつく。

 

そのゆる、のちのアップルⅠとなるスケッチを描く。その後、ウォズは開発を進め、1975年6月29日にパーソナルコンピューターができあがる。

 

このマシンにジョブズは感動し、部品調達の手伝いを始める。ジョブズはあちこち電話してインテルから何個かただで手に入れたりした。ジョブズとウォズの分業はこの頃から始まり、ジョブズが外部のやり取りやらビジネス戦略を練るなどマネジメントに力を入れ、ウォズは開発に集中するようになった

 

「ぼくがすごいものを設計するたび、それでお金を儲ける方法をスティーブが見つけてくれる」

自分ひとりだったらコンピュータを売ることはなかったとウォズは言う。

 

ジョブズは事業を始めるに当たって名前を考えた。菜食主義者を実践していて、また当時リンゴ農園に勤めており、元気がよくて楽しそうな名前ということで「アップル」にしたという。また、ジョブズとウォズのほかに友達のエンジニアのロン・ウェインを誘う。作業の中心となったのはロスアルトスのジョブズの実家だった。

 

アップルⅠが雑誌ではじめて特集されたのはインターフェース誌の1976年7月号だった。1976年9月の第1回パーソナルコンピュータ・フェスティバルに参加。開催場所はニュージャージー州アトランティックシティーのホテル。アップルⅠと新しいマシンのプロトタイプを持ち込んだ。

このときジョブズはパーソナルコンピューターは、すべてが用意され、パッケージとなったコンピュータを作る必要があると感じる。自作好きのコンピュータマニアたちを狙うのではなく、購入したらすぐに使えるマシンを欲する人達を狙わないとだめだと感じたという。

アップルⅡ


フェスティバル後、ジョブズらはアップルⅡの開発を始める。アップルⅡからジョブズはデザインに注意を払うようになる。

 

灰色をした不細工な金属ケースの他社製品と一線を画すものでなければならないと思い、ジェリー・マノックにデザインを依頼。数週間後、注型発泡という方法で作られたシンプルなプラスチックケースが届き、ジョブズは満足する。

 

アップルⅡの開発にあたって、ウォズはヒューレット・パッカードを退社。またマーケティングと物流がわかり、事業計画が策定できるマイク・マークラを仲間にくわえる。マークラはジョブズと同じく「マニア以外まで市場を広げることが大事」だと考えていた。マークラはジョブズにマーケティングや営業の重要性を教えこんだ。

 

「マイクは本当に世話になった。彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が強調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が信じるなにかを生み出すこと、長続きする会社を作ることだというんだ」

 

1977年1月3日、新法人のアップルコンピュータを設立。4月にサンフランシスコで開催される第一回ウエストコーストコンピュータフェアでアップルⅡを披露。ベージュ色の優美なケースに入ったアップルⅡは、他者のごつすぎる金属ケースに入ったマシンやむきだしのボードと比較して、フレンドリーな雰囲気を醸し出していた。

 

アップルⅡは大成功し、その後16年間、さまざまなモデルが総計600万台も販売される。パーソナルコンピュータという産業を興した立役者となった。

 

ジョブズが23歳のとき、1978年5月17日、ブレナンとの間に女の子が生まれる。リサ・ニコール・ブレナンという名前を付ける。ジョブズとブレナンは結婚する気はなかった。名前をつけるとジョブズは、ブレナンを置いてさっさとアップルの仕事に戻る。

 

アップルⅡのおかげでアップルは、一気にトップ企業にまで登りつめた。販売台数は1977年の2500台が1981年には21万台となった。

 

ジョブズは1978年、23歳で億万長者となった。24歳で1000万ドルの資産を築き、25歳で1億ドルの資産を築いた。また「フォーブス」誌でアメリカで最も裕福な人々の1人として紹介され、また遺産を受け継ぐことなく1人で富を手に入れた若者として紹介された。

 

1978年にアップルはCEOにナショナルセミコンダクターからマイク・スコットの就任を依頼。1983年にジョブズはペプシ・コーラからジョン・スカリーをアップルのCEOに誘い込み「残りの人生を砂糖水を売って過ごすか、それとも世界を変革したいか」と尋ねた。

ゼロックスPARC


アップルⅡのおかげでアップルは、一気にトップ企業にまで登りつめた。販売台数は1977年の2500台が1981年には21万台となった。

 

法人化した1977年1月、アップルコンピュータの価値は5309ドルだった。それから4年もたたずにアップルは株式を公開する。1980年12月、アップルの市場価値は17億9000万ドルとなった。

 

ジョブズは1978年、23歳で億万長者となった。24歳で1000万ドルの資産を築き、25歳で1億ドルの資産を築いた。また「フォーブス」誌でアメリカで最も裕福な人々の1人として紹介され、また遺産を受け継ぐことなく1人で富を手に入れた若者として紹介された。

 

1978年にアップルはCEOにナショナルセミコンダクターからマイク・スコットの就任を依頼。

 

1978年、Apple Ⅱを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。

 

ジョブズは1979年12月にゼロックスPARCへ見学に出かける。ゼロックスPARCでは、ビットマップとGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を使う「アルト(Alto)」というコンピュータを開発していた。ジョブズをはじめとするアップル勢は、このPARCのGUI構造を見ることが目的だった。当時ゼロックスはこの技術を商業化させておらず、アップルがGUIというアイデアをを奪い、開発中のLisaに改善したかたちで導入することになる。アップルのゼロックスPARC見学は、往々にして業界史上最大級の強盗事件だとされ、ジョブズ自身お誇らしげに認めている。

 

しかし、ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによって、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。行き場を失ったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。

マッキントッシュ


はじめてジョブズを表紙に大きく取り上げたのは「インク」誌の1981年10月号だった。「ビジネスを大きく変えた男」という見出しで、紹介された。1982年2月には「タイム」誌が若手アントレプレナーの特集でジョブズを取り上げる。記事本文でジョブズは「事実上、独力でパーソナルコンピュータ業界を創出した」とされた。

 

1982年にジョブズはサンレモの政治的に進歩的と評判のマンハッタンビルディングのツートップフロアのアパートを購入。彼はそこにすまなかったけれども、2003年建築家のイオ・ミン・ペイに頼んみ、数年かけてリノベーティングを行ったあと、バンド「U2」のボーカルのボーノに売却した。

 

ジョブズと対立し、関係が悪化していたスコットが、1981年マークラに解雇された。ジョブズはスコットの後任として、1983年にジョブズはペプシ・コーラからジョン・スカリーをアップルのCEOに誘い「残りの人生を砂糖水を売って過ごすか、それとも世界を変革したいか」と尋ねた。熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。

 

 

1984年にジョブズは広大な土地とジャッキングハウスを購入し、そこに十数年住む。その後、2000年まで数年間リースして、2004年により小さな現代的なスタイルに建てなおすために取り壊しの許可をウッドサイドから得た。ジョブズが死去する数カ月前、2011年に建物は取り壊された。

 

1984年にアップルはマッキントッシュを開発。リサを基盤にしたもので翌年アップルは「1984」と題し、スーパーポールのTVコマーシャルで放映。その晩、全国ネットの3大テレビ局すべてと50の地方局がこの広告をニュースでとあげた。

 

1984年1月24日に開催した年に一度の株主総会で、感情的なジョブズはマッキントッシュをプレゼンテーションを行い、現場は熱狂的な雰囲気に包まれた。開発メンバーの1人アンディ・ハーツフェルドは「大混乱」とそのときの様子を説明した。

 

熱狂的に受け入れられたにも関わらず、高価なマッキントッシュの売上げはいまいちだった。1985年に販売を開始した後すぐに、当時成長にのっていたマイクロソフトのビル・ゲイツが、Macオペレーティングシステムソフトウェアのライセンスを与えたいたにもかからず、マックでのアプリ開発を中止すると脅迫してきた。マイクロソフトはWindowsと呼ばれるDOSを利用できるGUIを開発していた。

NeXTワークステーション


アップル株の売却で得た700万ドルの資金とととにアップルを退社したあと、ジョブズは1985年にジョブズはNeXT社を設立。高等教育やビジネス市場向けのワークステーションを開発・製造を目的とした会社だった。

 

しかし、1年後に退職金が尽きるとベンチャー・キャピタルに助けを求める。結局、投資を引き受けてくれたのは、かねてからジョブズに関心を抱いていた億万長者のロス・ペローだった。

 

NeXT社はジョブズの復活イベントと世界中でみなされ、1988年10月12日水曜日、カリフォルニア州サンフランシスコのデービス・シンフォニーホールで記念イベントを開催。

 

NeXTワークステーションは1990年に初めて販売された。当時の価格は9999ドル。アップル・リサのようにNeXTワークステーションは技術的に進歩したものだが、コスト高で教育機関に導入されることはなかった。ジョブズは『Mach』や『デジタルシグナルプロセッサ』や備付けイーサネットポートなどの革新的で実験的な新技術を強調して、金融、科学、大学コミュニティに製品をプレゼンテーション、販売した。ティム・バーナーズ=リーは欧州原子核研究機構でNeXTコンピュータ上でWWW(World Wide Web)を発明した。

 

改良された第二世代NeXTcubeは1990年に発売された。ジョブズは初め"インターパーソナル”コンピュータで、パーソナルコンピュータにとってかわるものだと説明した。革新的なNeXTMailマルチメディア電子メールシステムで、初めて電子メールに音声、画像、動画を添付できるようにした。「インターパーソナル・コンピューティングは人のコミュニケーションやグループワークに革新をもたらす」とジョブズは説明。マグネシウム合金ケースの導入からわかるようにNeXTのデザインに脅迫的観念を持っていたが、このためハードウェア部門はかなり苦労を強いられた。1993年までに販売された数は5万台で商業的には失敗に終わった。