ウラジミール・プーチン

ウラジミール・プーチン / Vladimir Putin

甦るロシア帝国


概要


本名 ウラジミール・ウラジーミロヴィチ・プーチン
生年月日 1952年10月7日
国籍 ロシア連邦
政党 統一ロシア
宗教 ロシア正教
学歴 サンクトペテルブルク州立大学
家族

妻:リュドミラ・プーチナ(元客室乗務員)

長女:マリア(1985年生まれ)

次女:エカテリーナ(1986年生まれ)

ウラジミール・ウラジーミロヴィチ・プーチン(1952年10月7日-)は、ロシア連邦の政治家。

 

2012年5月7日より、ドミートリー・メドヴェージェフに代わるロシア大統領に就任している。また2000年から2008年にも大統領に就任、1999年から2000年と、2008年から2012年にはロシア首相を努める。また2008年から2012年までロシアの政党「統一ロシア」の党首でもある。

 

1991年に故郷のサンクトペテルブルクで政界入りする前のプーチンは、16年間プーチンはKGB(ソ連国家保安委員会)に勤務、中佐まで出世した。1996年にモスクワに移り、ボリス・エリツィン政権に参加し、急速に頭角を現し始める。1999年12月31日にはロシア大統領代行にまで昇格。

 

2000年にプーチンは広範囲な投票談合の不正があったにも関わらず、大統領選挙に勝利する。エリツィンに代わる第二代ロシア連邦大統領に就任、2004年の大統領選でも再選する。

 

しかし、憲法で大統領の任期制限が義務付けられていたため、2008年にいったん大統領職を降り、首相に就任。大統領選挙では自身の後継者としてドミートリー・メドヴェージェフを推薦。2008年から2012年までのプーチンとメドベージェフの二頭体制を組む

 

2011年9月に法律を改正し、大統領の任期を4年から6年に変更して、プーチンは2012年の大統領選挙で三期目の大統領に就任した。この出来事は、多くのロシアの都市で大規模なプーチン抗議活動を引き起こすことになった。2012年3月にプーチンは選挙に勝利して、第四代ロシア大統領に就任。任期満了は2018年までとなるが、仮に次期大統領選挙に出馬・再選された場合には、おそらく2024年まで在任することになるだろう。21世紀最初の四半世紀のロシアを動かした決定的な人物である

 

プーチンの最初の大統領期と首相期の間に(1999−2008年)、ロシアの実質賃金は3倍以上、実質所得は2.5倍に増加。また失業と貧困を半減させ、ロシアの自己評価の生活満足度も大幅に上昇させた。最初の大統領期には高い経済成長を達成、8年連続ロシア経済は成長し、実質GDP成長率は毎年平均で7%増加。購買力平価では世界6位となった。この経済成長の要因は、2000年代のコモデティ・ブームや石油の高騰だけでなく、慎重な経済・財政政策を組み合わせた結果のものだった。その経済政策とは、所得税率をこれまでの3段階による課税から一律13%の所得税(フラット・タックス制)への変更法人税や付加価値税(消費税)の引き下げ土地売買の自由化などである。

 

また首相期にプーチンは、大規模な軍事と警察の改革を断行する。ほかにエネルギー政策においてはエレルギー大国としてのロシアの立場を再確認、原子力や防衛産業におけるハイテクノロジー産業を支援、外国から投資を呼び込み、特に自動車産業などで投資ブームに貢献した。

 

プーチン政治の大半は、野党や海外から非民主主義的であると非難されている。2011年度の民主主義指数において、プーチンの立候補や欠陥のある議会選挙の点から「自由と奴隷のハイブリッド時代からロシア帝国時代の独裁政権へ移行期に発生する長いプロセス」と評価している。

 

2014年、かつてのソ連圏であるウクライナで政変が起き、親ロシア派の政権が倒れると、ウクライナ領のクリミア半島にロシア軍を送り、親ロシア勢力を支援。住民投票でクリミアをロシア編入へ導く。その後も、ウクライナ東部の親ロシア派武装勢力を支援し、ウクライナをEUやNATOへの接近を阻止。同年、ロシアは、クリミア併合問題でG8から除外されることになった。

 

2015年、ロシア空軍の戦闘爆撃機がトルコ軍に撃墜され、両国の関係が冷え込むも、2016年7月にトルコで発生したクーデター未遂事件を機に関係を修復。

略歴


祖先


父:ウラジーミル・スピリドノヴィッチ・プーチン
父:ウラジーミル・スピリドノヴィッチ・プーチン

プーチンは1952年10月7日、ソビエト連邦時代のロシア共和国、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で、ウラジミール・スピリドノヴィッチ・プーチン(1911-1999)とマリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911-1998年)の間に生まれた。

 

母は工場労働者。父はソ連海軍で、1930年代初頭に潜水艦隊に配属されていた。第二次世界大戦初頭に父は、内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に配属。のちに正規軍に転属するも、1942年に戦地で重傷を負う。

 

プーチンは3人兄弟の末っ子で、上にヴィクトルとアルバートという名前の2人の兄がいる。アルバートは生まれて数カ月後になくなり、ヴィクトルは第2次世界大戦時にレニングラード包囲戦(1941−44年)のときにジフテリアに患わって死去。兄弟のなかで生き残ったのはプーチンだけだった。

 

ウラジミール・プーチンの父方の祖父であるスピリデン・イワーノヴナ・プーチン(1879−1965年)は、ウラジミール・レーニンとレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤ、またジョセフ・スターリンなど多くの要人の料理を担当していた一流シェフだった。プーチンの母方の祖母は1941年に第二次世界対戦時にドイツ軍の犠牲者となって殺され、父方の叔父は戦争前に姿を消した。

 

プーチンの祖先であるが、祖父のスピリデン・アイヴァノヴィチより以前に“プーチン”という姓を持つ人の記録が存在しておらず、よくわかっていない。ジャーナリストたちは、プーチンの祖先は、15世紀なかばにドルツク自治公国の公爵から分岐したプチャーチン家と繋がりがあると指摘している。ロマノフ王朝時代に日本に来航し、日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍したエフィム・プチャーチンと顔が非常に似ているとも指摘されている。いずれにせよ、ロシアの歴史上で最も古い一族の1つの血筋である。

母:マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ。プーチンは母親似である。
母:マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ。プーチンは母親似である。
日本外交で活躍したエフィム・プーチャン
日本外交で活躍したエフィム・プーチャン
祖父:スピリドン
祖父:スピリドン

若齢期


少年期のプーチン
少年期のプーチン

少年時代のプーチンは、家庭環境はあまり恵まれておらず、レニングラードの共同アパートで過ごした。

 

1960年9月1日、プーチンはバスカブレンにある第193学校に入学。プーチンは顔は母親似で、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いだ。また、記憶力は抜群で、頭の回転も速く、45以上ある学級でトップクラスの優等生だった。

 

しかし、一方で大変な悪童でもあり素行不良が問題だったため、6年生までソ連・共産圏少年団「ピオネール」のメンバーにはなれなかった。


プーチンは、ヴャチェスラフ・チーホノフやジョージアイ・ズズホノブといったソ連スパイ映画の俳優に憧れて、ソ連国家保安委員会(KGB)への就職を考えるようになる。そこでプーチンはKGB支部を訪問し、応対した職員に「どうすればKGBに就職できるのか」と質問した。職員は少年の質問に、

 

「KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならない。大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働く」


などプーチンに助言を与えた。プーチンはそのアドバイスを守り、12歳のときにサンボや柔道などの格闘技を始める。また第281高校でドイツ語を学び、1970年にレニングラード大学の法律学部に入学し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときに、KGBからのリクルートを受け、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職する。

 

KGB職員はソビエト連邦共産党への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になった。卒業論文は「国際法における最恵国取引原則」。この論文は盗用された。大学在学中にソ連共産党に入党し、1991年12に党が解散するまで党のメンバーだった。大学時代に出会った政治家のアナトリー・サプチャークは、のちにプーチンの政界進出において大きな役割を担った。


KGB時代


KGB時代のプーチン
KGB時代のプーチン

大学を卒業したあと、1975年にプーチンはKGBに勤務。レニングラードのオフタにあるKGB学校で1年間トレーニングを積んだあと、プーチンは第2総局に配属され、その後第1総局へ転属とされる。このときの仕事は、レニングラード内の外国人と領事官の監視だった。

 

1983年に7月にリュドミラ・プーチナと結婚する。リュドミラは、ロシアの飛び地であるカリーニングラードの出身。結婚する前の職業は国内線旅客機のスチュワーデスだった。プーチンはリュドミラには最初、自分の職業については「職業は警察官だ」と話していたという(KGBといえるはずがない)。リュドミラとは三年付き合って結婚した。なお2013年にプーチンはリュミドラと離婚している。

 

1985年から1990年まで、KGBにより東ドイツのドレスデンにプーチンは派遣され、非合法的な諜報活動総局「S」に配属される。ドイツ語が堪能だったこともあり、おもに政治情報の翻訳と通訳の仕事をしていた。また、東ドイツの秘密警察「シュタージ」と連携して、ドレスデン工科大学の外国人留学生を徴募する工作。徴募した彼らを後に、アメリカに送り込むスパイ要員に仕立てあげた。

 

東ドイツ政権が崩壊したあと、プーチンはソビエト連邦に呼び戻され、レニングラードへ戻る。1991年6月にプーチンはレニングラード大学学長の国際担任補佐に就き、副学長のユーリー・モルチャノフに国際情勢の報告を行なうことになった。またプーチンは学生組織を監視し、新入社員にも目を光らせていた。

 

このころに、大学生の頃に教わっていたアナトリー・ソプチャクと懇意になる。プーチンが学長の国際担任補佐に就いたとき、ソプチャクは民主改革派の代表格で、レニングラード市ソビエト議長だった。友人からソプチャクの下ではたらくことを勧められ(実情はKGBのソプチャク調査といわれている)、プーチンはソプチャクの下で働くことになる。プーチンは中佐でKGBを辞職し、ソプチャクの政治担当顧問になった。その後、プーチンはソプチャクの下で極めて有能な内務官僚として頭角を表していく。

 

 

サンクトペテルブルク時代 1990-96年


ソプチャクとプーチン
ソプチャクとプーチン

1990年5月に、プーチンは、ソプチャクの国際情勢アドバイザーに就任する。その後、1991年にソプチャクがレニングラード市長に当選、その後、ソ連クーデター事件が起こり、街の名前がサンクトペテルブルクに改名すると、1991年7月28日に、プーチンはサンクトペテルブルク市の対外関係委員会の委員長となり、国際関係や海外投資の発展業務の責任を取る立場となった。なおソプチャクとプーチンは、クーデター派に反対するエリツィン側を支持していた。

 

また、サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めたプーチンの働きかけで,外国銀行の支店開設に成功する。また市内に投資地区を設けて,コカコーラやジレットなどの外国企業の誘致に成功した。

 

プーチンは市の食料危機を解決するために、希少金属の輸出を認める代わりに、食料を輸入するという契約を民間の貿易会社と交わす。しかし、一度も食料が到着したことはなく、プーチンは市内の立法評議会に調査され、プーチンは9億3000万ドル相当の金属の不正輸出を行っていると結論を出した。しかし、調査官によるプーチン解雇の勧告があったにもかかわらず、プーチンはサンクトペテルブルクの対外関係委員会の委員長にとどまった。

 

1994年から1996年までプーチンはサンクトペテルブルクのほかの政治や議会の職に携わる。


1994年5月にプーチンはサンクトペテルブルク市議会の第一副会長に任命される。1995年5月にプーチンは、ロシアの政党「我が家のロシア」のサンクトペテルブルク支部を組織する。

 

やがてプーチンが第一副市長に就任したさいには,ソプチャクは全面的に信頼を寄せている。

 

「サンクトペテルブルクで私が市長をしていた時に、彼は第一副市長でしたが、態度は極めて控えめで、人目につかず、私生活はこんな要職につく以前とまったく変わったことはありませんでした。権力欲がなく、遠慮深いこと、これがプーチンの特徴です。彼の特徴は仕事振りの確かさ,慎重さでしょう。決定を下す前に徹底的に考え抜きます。もう一つ、タバコも吸わなければ、酒も殆ど飲まないという、ロシアの政治家としては珍しい人物で、仕事一筋に生きるタイプです」



モスクワ時代 1996−99年


 1996年、ソプチャク市長がサンクトペテルブルク市長の再選に失敗すると、プーチンはモスクワに招集されることになり、1996年7月にパーヴェル・ボロジンを長とするロシア大統領府総務局長に異動、1997年3月まで次長に就いた。在職期間中、プーチンはロシア連邦における海外資産管理を担当、またソ連共産党時代の資産をロシア連邦への移管手続きを行った。

 

1997年3月26日、ボリス・エリツィン大統領はプーチンをロシア大統領府の副主任に任命し、プーチンは1998年まで就く。


1997年6月27日、サンクトペテルブルク国立鉱山大学の学長ウラジミール・リトビネンコに招かれ、プーチンは経済学の博士候補論文「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」を提出する。なお、プーチンがのちに大統領になったとき、ブルッキングス研究所から論文盗作の疑いをかけられ告発されたものの、論文委員会は盗作疑惑を否定した。


1998年5月25日、プーチンはヴィクトリア・ミティナに代わって、ロシア大統領府第一副長官に就任。7月15日にはセルゲイ・シャクレイに代わって地方行政を担当することになる。地方の知事との連絡役を務めた。なおプーチン就任後、セルゲイが就任していた時期に契約していた46もの契約書をすべて破棄したという。


1998年7月25日に、エリツィンはプーチンをロシア連邦保安庁の長官に任命、1999年8月まで就いた。また1998年10月1日に、ロシア連邦安全保障会議の永久会員となり、1993年には長官となった。


首相時代(1999年)


1999年8月9日、プーチンは第一副首相の1人に任命され、のちにエリツィン大統領によりロシア連邦首相に任命される。エリツィンはまた自身の後継者としてプーチンに任せる意向を伝え、プーチンは大統領に立候補することに同意した。

 

同年8月16日、ロシア連邦議会国家院は233の賛成投票(反対84、棄権17)を得て、プーチンを首相に任命した。当時プーチンの首相任命について、あまり期待していない人はけっこうた。特に一般大衆にはプーチンの知名度はゼロに近い状態だった。プーチンはエリツィンの支持者ぐらいにしか見られていなかった。

 

プーチンが大衆に支持を得られるきっかけになったのは第二次チェチェン紛争だ。プーチンは首相就任一ヶ月後の1999年9月、チェチェン共和国への攻撃を始める。1994年にエリツィン大統領が独立派の制圧を目指した第一次チェチェン紛争は失敗に終わった。その後、独立状態にあったチェチェンでは、イスラム過激派が浸透し、8月から9月にかけてはロシア各地で爆破テロが起きた。

 

特に1999年9月9日と13日に発生したモスクワ連続アパート爆破事件は、300人を超える犠牲者を出して、市民を震え上がらせた。ロシアにとっての9.11だ。こうした社会状況下で、プーチンの強い指導の下、9月23日にはロシア軍がテロリスト掃討のためチェチェンへの空爆を開始した。プーチンの大衆的な人気はここから爆発的に上がり、ほかの政治ライバルを大きく引き離すことになった。

 

正式に党と関わりをもっていないが、プーチンは新たに結成された「統一」党へのサポートを約束し、1999年12月19日に行われたロシア下院選挙で、「統一」はロシア連邦議会国家院で、ロシア連邦共産党に次ぐ第二党となる。

 

1999年12月31日の大晦日、エリツィン大統領が辞任すると、プーチンは大統領代行となる。

 

大統領第一期(2000−2004)


ウラジミール・プーチンは、2000年5月7日に大統領に正式に就任した。首相には元財務大臣のミハイル・カシヤノフが任命された。


プーチンが注目を集めた最初の大きな仕事は2000年8月に訪れた。ロシア原子力潜水艦クルスク沈没事件での対応ミスだ。プーチン氏は、事件発覚当時、避暑地にいたが、戻ってくると「専門家ではないので、現場に行く必要はないと思った」と語り、多くの乗組員の家族をはじめ、世論の批判を浴びることになった。


2000年から2004年まで、プーチンはおもに国の財政難問題に着手、ソビエト連邦崩壊からロシア連邦へと移行する際に国営企業をただで手に入れて莫大な利益を得ていたロシアの新興財閥「オルガリヒ」たちとの政治闘争をする。この過程である財閥は潰され、ある財閥とはさまざまな協定を結んでいった。オルガリヒたちは、エリツィン時代のような政治への介入をプーチンに阻止されるようになり、またプーチンは、脱税状態にあったオルガリヒに納税させ、ロシアの国家財政を再建させた。ただし、ビジネスに関しては、その大半の力を維持することを許されたため、以後、オルガリヒたちは実業に専念することとなった。プーチン政権内のオリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家も遠ざけ、代わってシロヴィキやプーチンと同郷のサンクトペテルブルク出身者(サンクト派)を重用した。


ロシアのマスコミや国際メディアの多くは、2002年に発生した「モスクワ劇場人質事件」で特別救出部隊による救出作戦で、100人の人質の犠牲者を出したことを批判、プーチン政権は深刻なダメージを受けたものの、テロリストの包囲が終了すると、ロシア国民の83%はプーチンの政治を支持し、プーチン政権の信頼はすぐに回復した。


選挙の2、3ヶ月前、プーチンは首相のカシヤノフを解雇し、ミハエル・フラトコフを任命。また、2001年3月にセルゲイ・イワノフはが国防省大臣を任命。ロシアでは、陸相・海相・国防相は現役の軍人が務めていたが、イワノフは、史上初の文民の国防相である。


2003年にロシア連邦議会はチェチェン共和国をロシアの一部の共和国に編入することを発表した。チェチェンは次第に議会選挙と地方政府の確立で安定化していった。チェンチェン戦争後、ロシアは現地の反乱の動きをほぼ封じ込めることに成功した。しかし、北コーカサス全体では散発的な暴力が発生し続けた。


年譜表