冷戦17「ベルリンの壁崩壊」

ドイツ統合



 ソ連という国が地球上から消滅して、冷戦は最終的に終わりを告げましたが、それより前に「冷戦の終わり」の始まりを知らせたのが「ベルリンの壁」の崩壊でした。


 1989年5月、ハンガリーは、それまでオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網を撤去しました。東西冷戦の中で、ソ連の支配下に入っていた東ヨーロッパ諸国は、1980年代の後半から、少しずつ民主化の道を歩み始めていました。ハンガリーはオーストリアの国境350キロにわたって続く、鉄条網と警報装置を見て「これでは第二のベルリンの壁だ」と考えたのです。

 

 これが東ドイツ国民の思わぬ反応を招きました。ハンガリーと東ドイツの間にはビザ免除の相互協定があって、双方の国民が相手の国を旅行することは自由でした。このため、東ドイツ国民が「旅行」名目でハンガリーに入り、そのまま国境を越えてオーストリアに入るケースが続出したのです。この人達は、オーストリアにある西ドイツ大使館に出頭して、西ドイツへの亡命を求めました。

 

 東ドイツ国民は、まずやはり自由に入れるチェコスロバキアに入り、そこを通り抜けてハンガリーに「旅行」に行きます。そして国境を越えるのです。チェコスロバキア→ハンガリー→オーストリア→西ドイツ、という東ドイツ国民の奔流が起きたのです。


 これを見た東ドイツ政府は、チェコスロバキアとの間で結んでいたビザ免許協定を停止しました。国民がハンガリーに行かないようにするには、まずチェコスロバキアへ入るのを止めようとしたのです。国外への道を断たれた東ドイツ国民の不満は爆発し、「海外に逃げられないのなら国内を変えるしかない」という運動に発展します。国民の怒りの爆発で、国外旅行の自由化という方針を打ち出しました。それがついにはベルリンの壁の崩壊へとつながったのです。


 1989年11月9日、ベルリンの壁に大勢の若者がよじのぼり、壁の上で踊り始めました。中には、壁をハンマーで叩き壊そうとする人々も現れました。


 ベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツからは、連日2000人もの東ドイツ国民が西ドイツに逃げ出しました。東ドイツという国自体が存続する力を失い、東ドイツ議会は、西ドイツとの統一を決議しました。1990年10月3日、西ドイツは東ドイツを編入し、ここに東ドイツという国は姿を消しました

 

 東ヨーロッパでは、過去にハンガリーやチェコスロバキアで、ソ連の支配に従わない動きがあると、ソ連が軍隊を出して、これを力で弾圧していましたが、ゴルバチョフの改革以降、東ヨーロッパの政治の変化に口を出そうとはしませんでした。むしろ、共産党が政権を失っても、それは「それぞれの国の国民が選択すること」という態度を示していました。ゴルバチョフによって、第二次世界大戦後の東ヨーロッパをおおっていたソ連への恐怖が消えました。安心した東ヨーロッパ諸国は、一気に民主化の道を進んだのです。89年11月、「ベルリンの壁」が崩壊すると、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリアで、共産党政権が倒れました


 しかしいまだにドイツの東西の経済格差は解消されていません。旧西側からすれば、旧東側は「怠け者」に見え、旧東側からは、旧西側が「金の亡者」に見えてしまうという現実があり、「心の壁」が残ったのです。