冷戦15「ソ連クーデター事件」

クーデター事件に乗じたエリツィンのクーデター



 ゴルバチョフ改革の理想は、現実との食い違いが発生しました。経済を活性化させるために、企業には主体性を与えました。上から計画を押し付けるだけでは、企業経営者の能力は向上しないと考えたからです。結果は、商品が店頭から姿を消す、という現象になりました。


 企業経営者に自由が与えられると、経営者はまず自分を含めて労働者の給料を引き上げたのです。労働者の収入は増え、商品をこれまで以上に買い求めようとします。資本主義社会ですと「需要」が高まるわけですから、それにともなって商品の値段が上がります。しかしソ連社会では価格統制が続いていて、商品の値段は低く抑えられています。労働者は、安い商品の買いだめに走ったのです。商品の店頭から商品がみるみるうちに消え、それが買いだめの動きを加速しました。ソ連国民の不満が高まります。

 

 しかも、グラスノスチの結果、次々に明らかにされるソ連の問題点は驚くことばかりでした。いかにソ連が腐敗し、遅れた国であるかを国民が初めて知ることになったのです。ゴルバチョフは経済を自由化し、国民が意見を自由にいえるようにすることで共産党が国民の支持を得て政権を維持していくという筋書きを描いていました。しかし実際は、逆に共産党への不満が高まってしまったのです。


 ソ連共産党保守派の幹部は、ゴルバチョフの改革に危機感をいだきます。その結果、クーデターが起こりました。1991年8月19日、ゴルバチョフが夏休みででかけている隙をねらって、ソ連政府高官人が「国家非常事態委員会」を設置。「ゴルバチョフは病気のため、ヤナーエフ副大統領が政権を引き継いだ」と発表しました。


 ここでエリツィンが登場します。この当時、エリツィンは、ソ連を構成する15の共和国のひとつ「ロシア共和国」の大統領でした。エリツィンは、ロシア議会が入っている「ホワイトハウス」と呼ばれる建物の前で、戦車の上に上がり、「クーデター反対」を呼びかけました。エリツィンの呼びかけに応えて、二万人の市民がホワイトハウス前に集まりました。クーデター派の命令に従わない軍の戦車部隊もかけつけ、議会の防衛に当たりました。ソ連軍のさまざまな部隊が、モスクワへの部隊の移動を拒否するなど、クーデター派の命令に従いませんでした。


 クーデターはあっけなく失敗しました。このクーデター失敗が、ソ連崩壊の引き金になったのです。クーデター失敗のニュースに喜んだ市民は、各地でレーニンの銅像を引き倒しました。ソ連建国の父の銅像を引き倒すことで、国民はソ連の体制に「ノー」と言ったのです。ゴルバチョフは、エリツィンの指示で派遣された一行によって救出されました。しかしすでにゴルバチョフとエリツィンの力関係は逆転していました。


 エリツィンは共産党の活動禁止を明示、ロシア共和国内にあるソ連の国家財産を、すべてロシア共和国の所有に移しました。これをたとえば日本に置き換えると、日本政府の資産も建物も、東京都知事が奪ってしまうようなものです。ゴルバチョフ政権へのクーデターでソ連が崩壊したわけではありません。これは、保守派クーデター失敗というチャンスに乗じたエリツィンのクーデターとでも呼ぶべきものでした。