冷戦12「ベトナム戦争4 高まる反戦運動」 

アメリカ反戦運動の始まり



 アメリカ人にベトナム戦争への決定的な不信感を植え付ける事件が、68年1月30日の「テト攻勢」です。南ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が全土で一斉に大攻勢をかけました。南ベトナム北部の古都フエは、わずか一日で北ベトナム軍と解放戦線に占領されました。さらに首都サイゴンのアメリカ大使館と軍の放送局には解放戦線の「特攻隊」が突入し、一時占拠しました。


 占拠された大使館を取り戻すため、アメリカ軍兵士が大使館を攻撃している様子は、アメリカ国内でテレビ放送され、アメリカ国民に強い衝撃を与えました。その直前まで、アメリカ軍は、ベトナム戦争は順調に進んでいて、勝利を得られる日も近いと説明していたからです。アメリカ国民は、アメリカ軍とアメリカ政府の言い分を信用しなくなりました。


 さらに、このとき、衝撃的な映像が世界を駆け巡ります。テト攻勢で逮捕された解放戦線の容疑者を南ベトナムの国家警察長官が、路上で報道陣を前にして、拳銃で撃ち殺したのです。裁判もしないで、政府の高官それも警察庁官が、報道陣を集めて容疑者を射殺してみせる。この映像を見たアメリカ国民は、自分たちの息子たちが血を流して守ろうとしている政府の実態を知ってしまったのです。


 南ベトナムでの度重なる衝撃的な出来事に、アメリカ国内では反戦運動が高まります。ベトナムでの悲惨な体験を終えて祖国に帰国すると、待っているのは罵声という状態は、アメリカ兵の士気を著しく落としました。社会復帰できない兵士が大量に生み出されたのです。いわゆるベトナム帰還兵によるPTSDです。ベトナム戦争をめぐって、アメリカ社会は、賛成、反対に分裂しました。

 

 アメリカ国民は、大使館の安全すら保てない実情を見て、すっかり不信感に陥り、アメリカ本国でのベトナム反戦運動の盛り上がりにつながりました。アメリカ軍はベトナムから撤退すべきだという声が高まりました。70年5月には、オハイオ州立大学のケント校で、デモに参加していた学生に対して、鎮圧に出動した州兵が発砲し、学生4人が死亡する事件までおきました。この事件は、アメリカ社会の反戦意識を、さらに高めることになりました。

 

 日本でも、当時有力だった労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキをする(1966年10月21日)など、各分野で反戦の声と行動が高まった。その代表的なものが1965年4月に発足した「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)だった。


「テト攻勢」の二ヶ月後、アメリカのジョンソン大統領は、北爆を一時停止し、北ベトナム・解放戦線との和平交渉を始めること、アメリカ軍ベトナムから順次撤退すること、次の大統領選挙に出馬しないことを発表します。ベトナム戦争をエスカレートさせていたジョンソン大統領の、いわば「敗北宣言」でした。アメリカの大統領は、民主党のジョンソンから、共和党のニクソンに替わります。