世界史36 アメリカ帝国1「無傷のアメリカ」

人と金はごっそりアメリカへ



1901年。シチリアからアメリカへ亡命するヴィトー・コルレオーネ。
1901年。シチリアからアメリカへ亡命するヴィトー・コルレオーネ。

19世紀末、大英帝国は衰退していた。代わりに新興国のドイツ、フランス、アメリカといったライバルの追い上げが激しくなってきた。1882年にはロンドンのシティで銀行の倒産が続発した。イギリスの衰弱はさらに激しくなり、世界は多極化状態に入った。


こうした中、1910~20年代のアメリカで交通・通信革命が起こった。ラジオ放送、映画、電話の普及が進んだが、これは人々の生活に与えた影響から見ると、今日のコンピュータがもたらしたものに匹敵する情報革命だった。また新たな個人の自由を具現する道具である自動車を生産する自動車産業を中心として展開していった。


1908年から1914年にかけて大転換期が訪れた。アメリカでT型フォードの大量生産が始まり、自動車の価格が半値になった。どの産業においても大量生産にはベルトコンベアによる流れ作業が、今日では当たり前になっているが、この流れ作業を最初に効果的に導入したのがヘンリー・フォードの自動車工場だった。


テイラー・システムによって20年代のアメリカの製造業の生産性は急激に上昇し、労働者人口はほとんど増えなかったが生産量は二倍に増加した。世界経済成長の牽引力は、明らかにアメリカの自動車産業と石油産業であった。


自動車産業はアメリカ産業全体を活気づけた。すなわち、自動車産業の上流部門では、鉄鋼業・鉱業・ガラス産業・石油会社、その下流部門では、道路・銀行・商業ネットワークの拡充といった具合である。


人々の生活、アメリカ社会は大きく変わった。自動車の所有は中産階級のシンボルとなり、労働者は金持ちと同じ道路で同じ景色を楽しみながらドライブをし、アメリカの夢の実現を肌で感じた。若者は親の目の届かないところでデートを楽しむようになり、「車に乗ったベッドルーム」の悪影響を懸念する声も聞かれた。

マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 .No2」1912年
マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 .No2」1912年


1914年の第一次大戦によって国境は閉鎖された。イギリス、フランス、ドイツはヨーロッパの内戦により消耗した。アメリカはヨーロッパの国々とことなり、自国アメリカ大陸にいかなる手強いライバルも存在しない幸運に恵まれた。アメリカが世界各地に介入する場合においても、自国領土が侵略される危険性は一切なく、意のまま介入できた。

 

第一次大戦がスペイン風邪の流行、ロシア革命とドイツの共産革命により終結したとき世界の権力は無傷のアメリカに集中した。これはあたかもナポレオン戦争がイギリスの勝利を確実にしたかのようであった。


戦争の勝利者になる国は、常に参戦しなかった国、または、いずれにしても自国領土で戦わず、無視と孤立主義を深めつつ、戦争の終盤にさしかかった頃に突如参入する国である。


なお、美術に関してヨーロッパの属国の感があったアメリカが、ヨーロッパからそのイニシアチブを奪取するきっかけとなり、またアメリカを活性化し、近代化する上で強力な起爆剤となった展覧会が、第一次世界大戦直前の1913年2月17日から3月15日までの約1ヶ月間、二ューヨークの元兵器庫で開催された。「アーモリー・ショー」である。


このとき、フランス美術から出展されたマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体. No2」は非難、嘲笑の的になったが、一方で新しい美術を模索していたアメリカの若い芸術家、また進歩的なコレクター、美術関係者にとってはデュシャンは強力な刺激、啓示となった。このデュシャンがアメリカに与えた衝撃をもってアメリカの現代美術“元年”とする見方がある。


1880年から1914年にかけて、ヨーロッパ大陸の人口の5分の1に相当する1500万人のヨーロッパ人、そして世界の預金の3分の1がアメリカ大陸へと移動した。これは35年間に、フランス、ベルギー、オランダの現在の総人口がごっそりヨーロッパを離れたことに等しい数字である。