世界史29 ナポレオン3

ナポレオン衰退期



ナポレオンは大陸封鎖令を出して、イギリスを経済的に追い詰めようとしたが、イギリスよりも、交易をしていた他国の方の損失が大きかったことや、革命の輸出によって各地でナショナリズムが高まり始めたこともあり、次第にフランスに対する不満が高まってきた。


フランスは、革命の原則を広めたことで、みずから災いを招いてしまった。たとえば、革命の原則の根幹をなす国民主権は、ナショナリズムと密接なつながりをもっていた。国民主権の原則を実現するのにふさわしい政治的単位は「国民(民族)」だとされていたからである。この考えは、革命の輸出先のドイツやイタリアでも多くの人びとが支持した。

 

ところが、現実には、ナポレオンのヨーロッパ支配は、国民国家の独立ではなく、ほとんど植民地状態でフランスの利益を目的としており、ほかのヨーロッパ諸国民の権利は否定されていた。各国の人びとは、自分たちの国の農業や商業がフランスの経済政策の犠牲になっていることや、フランス軍のために兵役をつとめなくてはならないこと、フランスが決める支配者や総督を受け入れなくてはならないことに、強い反感をいだくようになった。

 

「革命の原則と矛盾しているではないか!」と。革命を輸出することによって、ナショナリズムが高揚し、フランスに対する抵抗が始まった。

 

全く同じような事は、現在のアメリカの「自由と民主主義」の輸出にも当てはまる。21世紀現在、アメリカ的なるものは、政治、経済、文化等々、あらゆる空間を満たしている。しかし、アメリカ的なるものが拡散することで、逆にアメリカ離れが始まってしまい、帝国を築こうとしたアメリカがローカル化する可能性も高まってた。

 

ベトナム戦争の際、ホー・チ・ミンは、「フランス革命の原理によってフランスに抵抗する」と述べました。それと同じことが、アメリカにも言えると思います。つまり、アメリカは、今後「普通の国家」となっていくでしょう。200年にわたるアメリカの「普遍国家」プロジェクトが、実際には普遍性が失われ、ローカル化して「普通国家」プロジェクトになるパラドクスが生じてしまうのです。


最初にフランスの支配に抵抗をはじめたのはスペイン。一般の市民たちが抵抗闘争をはじめた。そのときフランス軍はスペイン市民を虐殺。ゴヤが描いた「1808年5月3日の処刑」という絵がある。マドリード市民の反乱が題材で、僧侶も含めて一般市民をフランス軍が銃殺しているシーンである。ゴヤはフランス軍の暴虐を告発するために、この絵を描いた。


また困窮しはじめたロシアが大陸封鎖令を破る。ロシアの封鎖令違反は、ナポレオン支配体制の崩壊を意味するため、1812年、ナポレオンは軍を率いてロシアに遠征すること決意。ナポレオンはロシア深く入り込まなければならず、そのため冬の寒さに耐え切れず、ナポレオン軍は退却。ロシから帰還したときの兵数はわずか5000。60万ではじまったロシア遠征軍が5000になった。軍隊が消滅したと言っていい。しかも戦闘ではなく、寒さと飢えです。ロシア遠征は、大失敗に終わった。ナポレオンとヒトラーは比較的よく似ているといわれますが、ロシア遠征の失敗を境にして戦局が変わったこともよく似ている


ロシアの勝利に勢いづいたヨーロッパ諸国は、反撃を開始。13年にはライプチヒの戦いでナポレオン軍は破れ、14年にはパリが陥落してフランスは対仏同盟軍の占領下におかれる。ナポレオンは皇帝の地位から引きずり降ろされて、イタリアのエルバ島へ流される。


その後、フランスでは、ルイ16世の弟ルイ18世が亡命先から帰ってきて、王政復古となりブルボン王朝が復活。しかし、すこぶる人気がない。傲慢で頑固なおじいさんだった。国民の評判も悪い。こんな王ならば、ナポレオンの方がよかった、という声がエルバ島で暮らすナポレオンの耳にも入る。チャンスはまだある、と考えたナポレオンは15年にエルバ島を脱出して帰国し、フランス国民の歓呼の声を受けて再び帝位に就く。


しかしワーテルローの戦いでフランスは破れ、ナポレオンは今度は大西洋の孤島セントヘレナ島に流され、6年後の1821年にその地で生涯を終える。最後に、20年もの長いあいだ、まず協力者として、ついで敵対者としてナポレオンを身近に観察しつづけたタレイランはこう評する。

 

「かれの天才は、信じがたいほどのものであった。ここ1000年のあいだに見られたもっとも驚くべき生涯である。かれはたしかに私が目にしえたもっとも非凡な人間であった。」