世界史28 ナポレオン2

ナポレオン黄金期



総裁政府を倒して、第一統領になったナポレオンは、強力な指導力をもって、中央集権体制による効率的な行政改革や経済政策を次々と断行した。


フランス銀行を設立し、通貨と経済の安定をはかり、フランス産業の発展の基礎をつくる。教育に力を入れ公共教育も始めた。またフランス革命以来、喧嘩していたローマ教皇とも和解し、カトリック=キリスト教を復活させ国教にした。もともとフランスはカトリック国でカトリック信者が多かったので、国民はこれに満足した。敵対にあったイギリスとはアミアン条約を結んで、フランスに久しぶりに平和をもたらした。

 

それら政治が功を奏して停滞し続けていたフランス経済も徐々に復興の兆しが見え始める。このような成果と、国民の人気を背景に、1802年、ナポレオンは終身統領という地位に就任する。死ぬまで独裁という意味である。

 

そして1789年の革命以来のフランス政府が出した法令を集大成する。これが、ナポレオン法典。1804年に制定。現在のフランスの法律も元をたどれば、これを基本にしているというくらいのものである。この法典で市民の政治・経済の支配権を確定させた。

 

しかし、1804年、ナポレオンは皇帝になってしまう。皇帝としての呼び名はナポレオン1世。皇帝というのは世襲の地位ですから、いくら何でもフランス革命の主主義的な理念と矛盾している。また、みんな(議会)の言うことを聞かないで自分一人の意見で決めるから、王室時代に逆戻りしており何をしているのか分からなくなってきた。

 

ただ、ナポレオンは皇帝の位についたあとも、自己の権力は国民の意志にもとづいたものであることを主張しつづけた。そしてナポレオンの独裁的性格は、言論・出版の統制などにも表れた。言論統制と独裁は常にセットである。


ナポレオンには「解放者」と「圧政者」に二面性が同居していた。この「解放者」と「圧政者」の二面性は、ナポレオンだけでなく、歴史上さまざまな場所で見受けられる。特に共産主義圏の国家に関して、スターリンや毛沢東の行動から見て分かるように、「解放者」であり「圧政者」であるコントラストがはっきりしていた。彼らもまた同じようにあくまで「人民の意志」を常に盾として、独裁を振るっていた。


その後、またもや、イギリスの主導で第三回対仏大同盟が結成されたので、ナポレオンはさまざまな国に対してで戦争をしかける。このとき、ナポレオンはフランス軍を「解放軍」と呼んでいます。なぜなら、ナポレオンは服属した地域に、人民主権、自由、平等といったフランス革命の理念を広げていく正義があるからである。そして、封建制度を打ち壊していく。「革命の輸出」という。


似たようなことは、現在のアメリカの「自由と民主主義」の世界の輸出がる。こういった教化行動は、啓蒙主義といい、普遍的な理念を手にした発展した国は「遅れた世界」に対して教化する使命を担うという勝手な観念である。これが欧米を始めとしたキリスト教圏の根底に流れている思想である。日本でも福沢諭吉が西欧から学んだこともあって、彼は同様の理屈で、日本は文明の遅れた朝鮮や中国を教化すべきだということを言っている。


ナポレオンはイギリス海軍と遭遇して、海戦になる。これがトラファルガーの海戦。フランスはボロ負け。しかし、敗戦の二ヶ月後、1805年12月、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破る。これ以後、ナポレオンはヨーロッパ各地で勝利をおさめつづけ、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外の地域をほぼ勢力範囲に収める。

 

そして、フランスの利益にかなうように、国境線を引き直したり、属国を建設したりする。征服した土地から軍の調達物資、美術品を略奪しするが「戦利品」ということで咎められない。いつの世も、戦勝は人の批判を沈黙させる。戦前の日本もそうだった。

 

1806年、プロイセンに勝利し、首都ベルリンに入城したナポレオンは、ここで非常に重要な命令を出す。大陸封鎖令。ナポレオンの支配下、及び同盟関係の諸国に対して、イギリスとの貿易を禁止する法律である。ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを閉め出すことで、経済的にイギリスを追いつめようとした。今でいうなら、アメリカが北朝鮮やイランに行う経済制裁みたいなもの。ついでに、このナポレオンの経済制裁によって発生した物価変動に乗じて、ロスチャイルドが大儲けした。