世界史27 ナポレオン1

ナポレオン飛翔期



ナポレオン=バナパルトは、1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれた。貧乏貴族が出世する近道は、軍人になることだった。そこで、ナポレオンは首都パリに出て士官学校に入学する。しばらくして、フランス革命が勃発。貴族将校は海外へ亡命したり、処罰されたりしてフランス軍の将校の数が少なくなっていった。


ナポレオンは、この混乱期のチャンスを逃さなかった。将校の数が大幅に減って空席ができている。そこで、ナポレオンは出世のための努力を開始。何をしたかというと、まずは、ジャコバン派の独裁を支持する内容のパンフレットを自費出版した。今でいうブログみたいなもので、まずはメディア戦略である。

 

当時、ナポレオンほどメディアにこだわっていた軍人はいないだろう。これで、ジャコバン派に近づいて、ロベスピエールの弟と知り合いになって、自分を売り込んだ。ナポレオンは人脈(ネットワーク)つくりに熱心だった。そうして着実に軍事的功績を挙げて、25歳で将校に昇進。


しかし、ジャコバン派の没落とともにナポレオンも逮捕される。だが、なんとか釈放された。ナポレオンは、得意の人脈づくりで、またまた復活のチャンスをつかもうとする。コネを求めて、有力者のサロンをあちこち訪れはじめる。いわゆる社交界に出入りする。そこでナポレオンは貴族出身の未亡人ジョセフィーヌという女性を捕まえた。ジョセフィーヌには、大物政治家でのちに総裁政府で総裁になるという実力者バラスという愛人がいた。そして、ナポレオンはジョセフィーヌ経由でバラスに近づいていく。


たまたま、1795年、ヴァンデミエール反乱という事件が起きる。政府も鎮圧に手間取り、このときに、バラスがナポレオンに鎮圧を命じる。ナポレオンは大砲を使って、見事に反乱を鎮圧。この功績で、ナポレオンは国内軍司令官に就任。見事に復活を遂げた。続いて1796年に総裁政府が成立。バラスが、このときに5人の総裁の一人だった。

 

さらに、対仏大同盟によるヨーロッパ諸国から包囲され危機敵状況にあったフランスは、有能な軍事指導者を必要としていた。オーストリアと同盟を組むイタリアを征服する戦略を立てたフランス総裁政府は、1796年にナポレオンを遠征軍司令官としてイタリアへ向かう。

 

ナポレオンは見事にイタリアを征服。しかし、政府の命令を無視して、数の上ではるかに上回るオーストリア軍を攻撃して撃破。さらに、独断で条約を結んでオーストリアとの和平が成立させる。普通、こうした政府の命令無視と勝手な条約締結を行った司令官は厳罰に処罰されるものだが、民衆の人気があまりに高くなっていたため、ナポレオンをうまく処罰することができなくなっていたようです。


1798年、ナポレオンはエジプト遠征の計画を立てて政府の承認を得る。ナポレオン軍はエジプトに上陸するが、イギリス海軍によってフランス艦隊が全滅し、軍はエジプトに封じ込められてしまう。その間隙をぬって1799年、第二回対仏大同盟が結成されてオーストリアや支配されたイタリアが条約を破棄してフランスに宣戦し、フランスは危機敵状況になる。

 

知らせを受けたナポレオンは軍をエジプトに残したまま単独で帰国。政府が、ナポレオンに帰還命令を出したわけでも何でもない。ナポレオンの勝手な行動で、明らかな軍紀違反である。自分の指揮する部隊を、放り出していくわけだから、責任ある軍人としては、あり得ない。しかし、11月にクーデターを起こして総裁政府を崩壊させ、新たに「統領政府」を成立させ、その後の駆け引きにも成功して自らが第一統領となって政治権力を掌握した。