世界史24 イギリス市民革命

ピューリタン革命と名誉革命


ネイズビーの戦い後の風景(1645年)
ネイズビーの戦い後の風景(1645年)

近代国家の手綱をとったのが、絶対君主だった。中世封建時代から国王は存在していたが、権威はあっても権力はなく、権力は諸侯が握っていた。そこで王様と市民との強力で発展してきた絶対王政だが、しかし、市民の勢力が大きくなりすぎると、なんの権利も認めようとしない絶対君主にたいして、どんどん不満が募っていった。


また、特権商人や商業資本家に利益をあたえても、自分たちはほとんど利益にあずからない。こうして政治および経済の両面から絶対主義打倒の声があがり、自由と平等を建て前とする近代社会を建設しようとする動きができた。これがすなわち市民革命である。現在の中国がだんだんとこのような動きになりつつある。


イギリスでは、1642年にピューリタン革命が起こった。ピューリタンとはカルヴァンの流れをくむイギリスの新教徒のことで、中産階級に多く、しかもかれらが議会の中心勢力を形づくっていた。当時イギリスに君臨したチャールズ1世は、王権神授説にかぶれて、中産階級の多い議会を無視して、貴族や特権商人の利益をはかっていた。たまりかねず、ついに議会は王と正面衝突におちいり革命が起こった。このとき、ピューリタン主義のかたまりのようなクロムウェルがリードした。1646年に国王軍を撃破し、国政の主導権をにぎる。


クロムウェルは国王チャールズ一世をとらえ、処刑。そして王政を廃して共和制をしき、独裁政治をおこなった。しかし、クロムウェルの政治は、イギリス国民にとってあまりに唐突だった。そこで王政復古が起こり、返り咲いた王家が、性懲りもなく専制政治をおこないはじめた。


ジェームズ二世のときに、ふたたび革命が勃発。結局、イギリス議会はジェームズの娘とその夫のオランダのオレンジ公ウィリアム三世をイギリス国王に迎えたが、この間、一滴の血も流されなかったので、名誉革命(1688)とよぶ。味方する者がいなくなったジェームス2世はフランスに亡命した。

 

翌年、王の専制を排除して議会の権限を定めた「権利の章典」が公布された。王は議会の承認なしに法律を停止しえない、金銭の徴収をなしえない、議員の言論は自由である、などがきめられた。こうしてイギリスの絶対主義は終止符を打ち、イギリスの近代政治体制が確立した。