世界史23  新教徒たちのアメリカ移住

自由と独立の土地を求めて


1664年のニューアムステルダム
1664年のニューアムステルダム

1600年ごろ、イギリスに住むピューリタンは、ひっそりと信仰生活をしていたが、イギリス国教徒たちは容赦なく彼らピューリタンを邪魔した。そこで1608-1609年の冬、ピューリタンの一部はイギリスを離れ、比較的寛容な風土のオランダへ移住した。

 

しかし、物質主義的なオランダの文化は誘惑が多く、イギリス人には合わなかった。そこで自分たちの求める信仰の自由を得るにはヨーロッパと完全に絶縁するしかないと決意し、新大陸アメリカの荒野が信仰活動の目的地として選ばれた


1620年、35人のピューリタンと67人の他の植民者「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父祖)」はメイフラワー号に乗り込み、イギリス植民地であるニュー・イングランドに向かって出航。名目はイギリス植民地の進展だった。

 

ついで、イギリスの政治的苦境を逃れるピューリタンたちが、次々とあとを追ってボストンにやってきた。1640年までに約二万のイギリス人がアメリカへ移住し、1732年までには、東海岸に13州を開拓した。

 

新大陸の環境の下で、すべての人は、たとえ前歴があろうと、おのずから可能性を与えられた。開拓で第一に重要なのは実行力でした。ニュー・イングランドのフロンティアでは、人びとは成功か否かの決め手は自分たちの野心と能力にあると信じた。やがて自尊心を身につけはじめた。かれらは本国からなんの保護もうけず、素手で開拓にあたったから、自由独立の気風が旺盛でったのは当然である。

 

またアメリカに移住したイギリス人は、住民の自治による、貧富の差の少ない平等な社会を作りたいという意識を持っていたこともあり、奴隷などの不自由民をのぞき、90パーセントが自作農的な土地所有者という貧困がほとんどない豊かな社会を実現した。


それに対して、スペインとポルトガルの支配下に置かれたメキシコから南アメリカ大陸では、大土地所有に基づく、少数の富者だけが栄える奴隷制経済によって貧富の差が拡大した。さらに、イギリス人のように、土地で農産物栽培をせず、富の収奪ばかりをしていたため、産業が継続的に進展することもなく、その後にラテンアメリカ諸国の停滞に大きく影響した。

 

またオランダは、北アメリカの東海岸のマンハッタン島の南端をインディアンから買い取って「ニューアムステルダム」を建設し、交易の拠点とする。しかし次第にイギリスの移民たちが東海岸の支配地を拡げていき、ニューアムステルダムはイギリスの攻撃であっさり降伏し、1664年にイギリスに支配されることになる。

 

このときのイギリス艦隊が「ヨーク公」の命令で派遣されたことから、それ以降この都市は「ニューヨーク」と呼ばれるようになった。オランダの衰退によって、17世紀後半は北アメリカがイギリス、フランス、スペインという色分けになった。