世界史22 オランダの繁栄「アムステルダム」

市民が主役の街 アムステルダム



アントワープとスペインも没落したかわりに、17世紀中ごろから栄えはじめたのがアムステルダムである。


17世紀初頭、アムステルダムは、船の製造・販売・整備の巨大な作業場となった。オランダ船団は、ほかの国の海軍と比較にならないほど規模が大きく、また厳重に武装されていた。そのため、オランダ海軍は、インドや東南アジア、バルト海からラテンアメリカまでの海を支配して、ポルトガル勢力を追い払って香辛料貿易を掌握するようになった。

 

オランダは日本にも進出して入港を許され、ポルトガルに代わって対日貿易を独占するようになった。江戸時代の「鎖国」というのは嘘で、実際はオランダによる対日独占貿易といったほうがよい。


なんといってもオランダを世界の商業の中心としたのは、世界最大の、そして世界で最も進んだ資本と商品の取引所となったことである。世界の海域を支配して商圏をにぎり、アムステルダム証券市場と銀行で蓄えた富を金融、商業、産業、保険に投資していたオランダは、農本資本主義という時代遅れの産業(食糧、皮、羊毛)をしていたフランスの姿を横目でながめ、ほくそ笑んでた。

 

また、オランダはカルヴァン信徒が中心のため、公共の精神が強く、経済的な利害をともにしていて、団結力も高い。公的な生活は豪勢となり、知的生活は盛んになった。この経済的繁栄を背景にして、オランダは芸術、文化、教育も大いにすすんだ。有名大学は外国人をどんどん受け入れた。デカルトやスペインを追い出されたユダヤ人がオランダにやってきた。スピノザもこの時代の人だった。

 

イギリスの旅行者は、「オランダの家はこの国の物の中で、最も眼を喜ばせてくれる美しいものである。どんな貧乏な家でも絵画が飾ってあり、装飾品のない家はない」と報告した。絵画の需要は大きく、当時オランダに輩出した画家の名は枚挙がない。中世から19世紀初頭まで、美術の最大のパトロンはカトリック教会と王侯貴族であり、宗教画や神話画が中心でしたが、オランダでは一般市民が絵画を購入していたため、分かりやすくて親しみやすい作品を求めて、風景画、風俗画、静物画の独立、発展を促した。

 

レンブラントの『夜警』という絵は、オランダ市民の自警団が町を守っているところだが、ここに描かれているのはアムステルダムの実在の商人たちである。商人たちが自分たちでお金を出し合ってレンブラントを雇ってこの絵を描かせた。


また、フェルメールの風俗画では、上品な家庭の静かな室内に一人または少数の人物(おもに女性)が表されている。手紙を読んだり牛乳を注いだたりといった日常的風景だ。


世界は、2世紀続いたオランダの成功を恨めしそうに眺めていた。17世紀なかばのアムステルダムの一人当たりの所得は、パリよりも4倍以上多かった。プロテスタントがフランスから退去したこともあって、その経済格差はさらに広がった。

 

しかし、1775年ごろ、オランダに衰退の陰りが見え始めた。衰退の理由は、オランダ海軍の戦力が低下したことで、海上の安全が確保できなくなり、自国商業ルートの安全確保にかかる費用が高騰したからである。


さらに、エネルギー減である森を伐採して確保してきた木材が枯渇した。技術進歩もとまった。さらに賃金労働者からの要求が高まり、社会紛争は激化し、アムステルダムの毛織物は割高になった。こうして世界の中心都市は、アムステルダムからロンドンへ移動していった。