内村鑑三「代表的日本人3 上杉鷹山」

債務危機を乗り切るリーダー



上杉鷹山が直面することになった仕事は、他人なら皆しりごむ内容でした。鷹山が藩主になったときには、上杉家は、15万石の大名でありながら、昔のままの100万石の家臣を抱え、当時の慣習やしきたりをことごとく踏襲していたのです。したがって、負債は何百万両にものぼりました。

 

税とその厳しい取り立てにより住民は土地を追われて減り、貧困がおおいました。米沢は羽前の南部に位置にし、海岸はなく、土地の産出力と自然の資源の面では、日本でかなり悪いほうでした。そういう事情のため、希望は絶え果て、藩の崩壊とその藩に支えられている住民の破産は、遠からず必至とみられていました。


しかし、若き藩主、上杉鷹山は変革を為し遂げなければなりませんでした。それ以外の救済は不可能でした。鷹山の変革は、大きく「債務返済」「内政改革」「産業改革」「社会資本投資」の4つです。

 

●債務返済

変革は他人を待つのではなく、まず自分から始めなくてはなりません。当然、財政は最初に解決を迫られる問題でした。緊縮財政策です。少しでも秩序と信用を回復するには、極度の倹約しかありません。藩主自ら、家計の支出を、1050両から209両に切り詰めようとしました。女中は50人いたのを9人に減らし、自分の着物は木綿にかぎり、食事は一汁一菜をこえないようにしました。家来たちも同じく倹約をしなければなりませんが、それは、鷹山自身とは比較にならない程度の倹約でありました。このような状態を16年間も続け、どうにか重い債務から脱することができるのであります!

 

●内政改革

適材適所なしに善政はしけません。鷹山の「能力に応じた人の配置」という民主的な考えは、封建政治の世襲的な性格に反するものですが、鷹山はあらゆる手段をつくして人材を登用しようとしました。そして人間を3つの異なる地位にわけて、民の上に配しました。第一の役は、郷村頭取と郡奉行です。今で言えば役人のようなものです。かれらは小藩の行政一般をになう総監督でした。第二の役は、一種の巡回説教師のような役であります。「親孝行のこと、寡婦や孤児への慈愛、家の修理のこと」など道徳や慣習や儀式を人びとに教えます。第三の役は警察です。彼らは、人々の悪事や犯罪を摘発して、罪状にしたがい厳しく罰する役でした。

 

●産業改革

鷹山の産業改革は二通りありました。1つは、領内に荒地を残さないこと。もう1つは民の中に怠け者を許さないことです。サムライたちを、平時には農民として働かせ、それにより荒廃地から何千町歩にもなる土地を興しました。また鷹山は、ウルシを広範囲に植えつけることを命じました。藩士はだれも15本の苗木を庭に植えるように求められ、他はみな5本、寺は境内に20本、植えなければなりません。これは後世に大きな影響をもたらしました。開墾に適さない地には、百万本余のコウゾ(紙を作る植物)が植えられました。

 

しかし鷹山のおもな目的は、領内を全国最大の絹の産地にすることでした。自分の始めた数千本の桑株は、しだいに株分けされて、全領内に植える余地がなくなりました。米沢産の絹は、今日では市場で最高級のひとつに数えられています。また良種の馬を導入し、池や川にはコイやウナギを飼い、他国から鉱夫や織工を呼び、商業上の支障はすべて取り除き、領内にある資源はことごとく、あらゆる手をつくして開発をつとめました。

 

●社会資本投資

鷹山の産業改革の全体を通じて、特に優れているのは、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。領内の、才能はあっても貧しい学生に高等教育の機会を与えるため、多くの奨学金を与えて学費を免除しました。創立以来百年近くの間、米沢の藩校は全国のモデルになっていました。さらに医学校が開設され、そのために当時の日本では最高の医師二人が教師として招かれました。どんな医療機器をも費用を惜しまずに可能な限り入手し、医学校に置いて教育と実習とに自由に使わせました。薬草の栽培のために植物園も開かれ、そこで採取された薬草で薬学が教えられ、調剤もされました。

 

この勤勉な節約家の人生は、健康に恵まれた70年でした。若き日の希望は、ほとんどかないました。藩は安定し、民は物に富み、国中が豊かに満たされました。