世界史19 イギリス国教会

カトリックとプロテスタントを融和



ルター派やカルヴァン派からほとんど影響を受けることなく宗教革命が起こった国がある。イギリスである。ヘンリー8世という人が、カトリック教会から離れてイギリス風のキリスト教「イギリス国教会」という独自のキリスト教を作ってしまった。

 

ヘンリー8世は、ヨーロッパ本土で宗教改革が起きたときは、すぐに新教側のルターの方針に反対した。「プロテスタンティズムはおかしい」という声明も出した。堂々とプロテスタンティズムに反対したので、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を授かる。お前はよくぞカトリックを擁護したという称号である。

 

ところが、ヘンリー8世は、ここでうっかり離婚問題を起こしてローマ教会と大げんかになる。ヘンリー8世はスペインのキャサリン妃と結婚していたのだが、後継者となる王子となる男の子ができなかったこともあり、離婚して美貌の宮女アン・ブリーンと再婚しようとした。そこで国王たるもの、再婚の許可を教皇にもらう必要がある。しかしこの許可がなかなか下りない。カトリック教会では離婚を認めていないからである。

 

ついに頭にきたヘンリー8世は、カトリックが我慢ならなくなって、1534年に「首長令」というものを発布して、イギリスの教会は教皇教導権から自立すると宣言する。結局のところ、イギリス国教会は「国王を至上の長とする」ことを決定したために、ローマ・カトリック教会から離れ、「イギリス国教会」が誕生し、プロテスタント側に立つことになった。個人の女性問題だけで宗教改革が起こってしまった。「国王至上主義」だということにあらわれているように、これは国王の王権を絶対視したうえで成立したものだった。


ヘンリー8世の乱暴な宗教革命が許せない者がいるのが当然である。イギリスのキリスト教はそれなりの伝統があるわけです。当然、カトリックのよさを重視する者は少なくない。代表が「ユートピア」を書いたトマス・モア。モアは執拗にヘンリー8世の結婚問題にも、首長令にも反対して、断頭台で首を落とされてしまう。ほかにも、カトリックが恋しい者はけっこういた。


1553年に即位した女王メアリーも、国王至上の立場を逆用してカトリックに衣替えしようとして、新教徒を随分迫害して「流血のメアリー」というふうに呼ばれた。メアリーは、イギリスの4分の1の僧侶を大陸や神教都市へ追放し、それだけでなく、プロテスタント化の中心となった僧侶たちは焚刑に処せられ、その犠牲者は300名にのぼった。国民への見せしめのためであろう、すでに死亡していたブッツァーらの屍体も発掘し、あらためて焚刑にしている。

 

メアリーのあとにエリザベス1世の登場により宗教問題はプロテスタント側への揺り戻しを経験する。カトリックとプロテスタントを融和させるか、ないしはどちらにも偏らない宗教政策でいこうとを考え、1559年「国王至上法」と「礼拝式統一令」を成立させた。それらは妥協の一語に尽きる内容のもので、内容は教義の上ではプロテスタント的で、教会儀式の上ではカトリック的であったということができる。今日までにつづくイギリス国教会の基礎はこのときに確立された。


メアリの恐怖政治の終結とともにヨーロッパ本土に亡命していたカルヴァン主義の戦闘精神にあふれたピューリタンが帰ってきた。しかしカルヴァン主義は、激烈に英国国教会を批判した。ピューリタンは国家によって強制された宗教ではなく、個人の内面に支えられた宗教であるためだ。

 

当然、イギリス側がピューリタンをそのままですませるけはない。もちろんピューリタンが英国国教会に服従するはずがない。そこで彼らの一部は国外脱出をはかります。これが有名な「ピルグリム・ファーザーズ(旅する父祖たち)」になる。1620年にサザンプトンを出港したメイフラワー号で旅立ち、1630年には大挙して新大陸に移住する。かれらこそ「新しいエルサレム」としてのアメリカをつくることになる。