世界史16 新大陸発見

失われた楽園を求めて西へ



イベリア半島の小国だったポルトガルは、狭い領土の中で農地をわずかしかもたなかったため、自国だけでは食料自給ができなかった。そのため交易で生計を立てる必要があったものの、地中海はイタリア商人に制海権を握られていて割り込むことができなかった。そこで、生き残りをかけて選んだのが、アフリカ西岸地域への交易路を開拓することでした。


このプロジェクトを推進したのが、エンリケ航海王子である。1430年ごろからカナリア諸島近くに位置するポハドル岬越えに挑み、さらに10年の歳月をかけてヴェルデ岬まで到達した。アフリカ西岸とアフリカ内地の開拓が進む中、交易として成り立つ品(砂金や胡椒、象牙、奴隷など)も発見され、莫大な利益を得る。

 

新たな交易路の開拓に成功したポルトガルは、アフリカ西岸からインドに到達する航路の開拓に挑戦した。インド産香辛料は、当時大変な需要があって高く売れたため、これをイスラムやイタリア商人の手を介さずインドから直接運んで販売すれば莫大な利益を手に入れることができたからである。


またこの時期、イタリアのトスカネリが「地球球体説」に基づいた世界の想像図を作り、大西洋を西に航海すればアジアに到達し、その距離はアフリカ南岸を迂回するルートより近いと主張しはじめた。この話に飛び乗ったのが、クリストファー・コロンブスです。


コロンブスの冒険以前にも、失われた楽園を求めて西へ行くという思想は何世紀にもわたって存在していた。ユダヤ人はエジプト脱出後砂漠を彷徨いながら、カナン-乳と蜜の約束の地を求めて西へと旅した。ギリシア人やローマ人やフェニキア人も、同じような西方の地上の楽園伝説があった。そしてまたコロンブスも、西方に陸があることを直観で分かっていた。今日のわれわれには中南米のものとわかっている巨大な熱帯性の籐や彫刻のほどこされた木が流れ着いていたからである。一度などは、ヨーロッパ人には奇怪に見える扁平な顔の人間の死体が二体、浜に打ち上げられたこともあった。コロンブスはこれら漂着する死体が発しているメッセージの意味をしっかりと心に止めた。


コロンブスは、地球球体説にもとづいて東へ行くために西回り航路案を立案してポルトガルに働きかけますが、却下される。そこで、当時、イスラム教へのレコンキスタが終了して、資金に余裕のあるスペインに話を持ちかける。ポルトガルと競争する必要に気付いていた彼らは賭けてみる価値があると考えた。

 

そればかりか、コロンブスは異教の民にキリスト教を広めるスペインの器となるかもしれない。黄金、神、栄光を考えあわせると、コロンブスの提案には抵抗しがたいものがあった。スペインのイサベル女王がようやくコロンブスの計画を受諾し、1492年8月3日、未知の世界へ向かってパロスを出港した。


まったく視野から消え去ってしまったかのような島影を求めて進路を変えたがる乗組員を、コロンブスは絶えず諌めなければならなかった。水夫たちは大洋上に家郷から遠く離れてしまったことに不安を覚えていた。コロンブスは水夫たちに前方のアジアの富を思い起こさせた。ときには距離を短く見せるために、わざと測定器を狂わせたりもした。


そして、10月12日の朝、サン・サルバドール島が視界に入り、心配は一時消え去ったのだ。インドと間違ってコロンブスはアメリカ大陸を発見した。そして原住民に「インディアン」という名称をつけた。1493年3月4日、リスボンに帰り着いたコロンブスは大波のような興奮を巻き起こした。彼がもたらしたニュースにとって、ヨーロッパはまさしく機が熟していたのである。彼の「発見」によって、直接合衆国形成まで連なるヨーロッパ世界の絶えざる拡張が開始された


しかし、カリブ海や北米のような比較的貧しくて原始的な人々の間では、交易する品物がほとんどなかった。そこでは、富を得るためには労働しなくてはならなかった。報酬を期待する前に、時と、努力と、金を投資しなければならなかった。コロンブス自身は無意識にこの事実は理解していた。「丘や山、平原や草地を具えたひとつの驚異であり、植樹やあらゆる種類の家畜の飼育、町や村の建設に非常に適した豊かで肥沃な土地」であると断言している。しかし、素早い安易な富の魅惑に目がくらんだものたちには、新しい土地のほんとうの豊かさが見えなかった。


問題点はそもそも、コロンブスをはじめとして、スペイン人が農民でも定住者でもなく、征服者だったことが原因であることはいうまでもない。アメリカ大陸に対するコロンブス、およびスペイン人の関心はその土地への移住ではなく、宝を発見して故郷へ持ち帰ることだったからだ。