世界史15 生と死の極限ルネサンス

ヨーロッパ全体が大混乱と個人主義の時代



近代の序曲はルネサンスから始まる。11~12世紀ごろに、イタリアのヴェネツィア・ジェノアなどの沿岸都市部は、東方貿易の交流地点であり、また十字軍時代には遠征の通路、兵員、資材、船舶の供給地であったために経済的に発展していた。


この貿易の発展にともなって、ギリシア・ローマの古典文化を保持していたイスラム世界やビザンティン帝国から、イタリアへ古典文化の学問が流入してきたことが、ルネサンスの起源となる。


とかくルネサンスは美化されやすいものである。が、ルネサンス文化をうんだ現実のイタリアは、決してきれいごとの世界ではなかった。イタリアばかりではない。ヨーロッパ全体ががきれいごとではない。14世紀ごろから、ローマ教会の権威が傾いて、宗教的な秩序が次第に崩れていくなかでヨーロッパ全体は大混乱と弱肉強食の時代に入っていった。とりわけイタリアは、統一国家が存在しておらず、都市国家が乱立して、手の付けられない分裂状態にあった。都市国家内の平民と貴族の、都市国家相互間の競争が激しく、豪商や諸都市が争って才能ある学者を招いたり、一流の芸術家に教会を作らせたり肖像を作らせたりするようになった。

 

そんなルネンサス・イタリアの激しい紛争時代を代表する君主がフィレンツェのメディチ家当主ロレンツォである。ロレンツォは、詩が好きで、自分でも作り、人にも朗誦させた。

 

「青春はうりわしくも、あわれはかなきかな。今をたのしみてあれ、何事も明日ありとはさだかなられば」

 

これは、凡庸な歴史家がよくそう考えるような放蕩児の鼻歌ではない。ロレンツォはつねに危険に身をさらされることを生きがいとし、現実に対して全力をあげて対決しようとする詩である。死中に活を求めた「メメント・モリ」こそルネサンス哲学である。


したがって当時の詩人や芸術家で、安楽な往生をとげたものは少ない。ダンテは、フィレンツェに追放されて異郷に没した。エラスムスは、晩年落莫たるものだった。「生きることは楽しい」と人生を賛美した詩人フッテンは、ロクでもない最期をとげ、「ユートピア」を書いたトマス=モアはロンドン塔で首をはねられた。セルバンテス、ラブレー、モンテーニュすべて、泰平の逸民ではなかった。いや、ありえなかった。


詩人や芸術家の生活は、そのころはひどく不安なものだった。レオナルド=ダ=ビンチのようなひとですら、転々として、メディチ家・ミラノ公、最後にフランス王のやっかいになった。しかもこれらのパトロンがみながみな、芸術の真価をみとめたのではない。詩人・芸術家にしてこうだから、毎日が闘争である政治家にとって、一寸先は闇夜だっただからこそ、一瞬一瞬を生きつくそうとしたのではないだろうか。

 

ルネサンスのイタリアは、「戦争屋」すなわち傭兵隊長と呼ばれた連中の活躍する時代でもあった。この時代の傭兵隊長は、雇い主も市民も油断できない状態におかれた。ここに戦闘それ自体を目的とし、あらゆる手段をつくして「勝つ」ことにつとめる人間が生まれてきた。それ以外のことに心を費やしてはいけないのである。彼らにとって信頼すべき者は存在しない。ただ自分の個人的能力だけが頼りだった。この思想は、現在の私たちにはとうてい信じがたいようなものだが、この冷酷な、打算の極地に立つ思想は、信じがたいほど不安定な社会から生まれたのである。