内村鑑三「代表的日本人2 日蓮」

自宗か他宗か、いずれかの絶滅しかありえない!



日本では13世紀が、日本の仏教の最後にして最大の形成期であったといってよいでしょう。ここに一人の偉大な人物を取り上げることにいたしましょう。1222年、安房の国の貧しい漁師の家に一人の子どもがうまれました。母は熱心な日輪の信者であったため、子どもは日輪の神にちなみ、善日麿と名づけられました。後の日蓮聖人です。


ある夕、日蓮は、涅槃経に目を注いでいると「真理の教えを信じ人に頼るな」という文がを見つけ、迷い苦しむ心に言い知れぬ解放感を得ました。すなわち、「人の意見は、どんなにもっともらしく、耳触りがよくても、頼るべきではない、「仏尊」によって残された経文こそ頼るべきである。あらゆる疑問は、それによって解決しなくてはならない」、とわかったのです。日蓮の心は今は安らかになりました。依るべきものが見出されたのです。


日蓮と似たような人が、キリスト教の修道士にもいました。1517年、一人の若い修道士ルターが、免罪符販売をする教会に対する多くの疑問をかかえ「意識を失う」ほどの苦心探求のあげく、古い1つの聖書に目にとめたのです。「教会のいうことではなくて、聖書に書かれていること唯一の源泉にしようと」。ようやく、その聖書により心の安らぎを見出し、それを自分の信仰と生涯のとりでして、以後長い間、かたく守った話であります。


日蓮は、「法を広めるにはよき地」である首府鎌倉に直行しました。そして所有者もいない場所に草庵を建てました。ここに法華経をひっさげた日蓮は居を定め、ひとり立って世のあやまちを正す仕事を開始したのです。大日蓮宗は、まさにこの草庵にその起源を発するといえます。偉大な事業というものは、常に、このようにして生まれるものであります。ところでキリスト教そのものは、はたして日本で同じような始まり方をしたのでしょうか。ミッション・スクール、ミッション教会、金銭の支給、人的援助…… 大いなる日蓮には、このうちなに1つありません。日蓮はまったくひとりで始めたのです!


こうして日蓮は、1254年春、この国では最初の辻説法を開始しました。日蓮は、首府の聴衆の罵声をあびながら、故郷の人々の前でした教えを、そのまま繰り返しました。他の教法がすべて誤りということはありえない、との当然生じる疑問に対し、日蓮の説明は簡単でした。


「足場は、寺が建つまでの間につかわれるだけである」


 

日蓮は6年の間、やむことなく説教をつづけ、やがて、注目をひくようになりました。そうなると適当な時期に抑えておかないと、町中日蓮の影響に覆われてしまうという心配が生じ、首府の新興宗教を弾圧する相談をしました。そのころ日蓮は「立正安国論」を著しました。

 

「立正安国論」は、この国の高僧知識に対する宣戦布告でありました。戦いのあかつきは1つ、自宗か他宗か、いずれかの絶滅しかありません。その激しい情熱は、狂気と区別しがたいものでありました。北条時頼は、この熱狂徒を首府から放逐することで弾圧をはかりました。この小さな仲間は、力づくで解散させられ、日蓮は流人として遠国に追放されることになりました。


「立正安国論」以後の15年間は、日蓮の生涯にとり、この世の権力、支配者との絶えざる戦いでありました。まず伊豆に追放されましたが、その地で過ごした3年の流刑生活の間にも改宗者をつくりました。鎌倉に戻ってくると、信徒たちからは「戦い」をやめて、宗門内の教化に専念するよう懇願されました。これに対する日蓮の答えは断固としたものでした。

 

「今や末法のときである。折伏は、危険に瀕する病気の薬として欠かせない。一見無慈悲にみえようとも、これこそ真の慈悲である」

 

日蓮の聖俗問わず権力者にあびせかける悪口はもう抑えきれないとわかると、北条氏は、例外的な非常措置として、日蓮を死刑執行人の手に渡す決意をしました。執権は、ただちに死罪にかわって流刑に処する宣告をし、佐渡に流されました。佐渡は最重罪の流される地でありましたが、この島にあって5年もの流刑期間を生き延びた事実は、それだけで十分奇跡でありました。日蓮の不屈の勇気と忍耐は、鎌倉幕府の恐怖とともに尊敬を招きました。


1274年、鎌倉に着くとまもなく日蓮は、日本で教えを自由に広める許可状を手にしました。精神がついに勝ったのです。日蓮の精神は、その後700年間にわたり、日本にあって勢力を保つことになります。日蓮ほどの独立人を考えることはできません。実に日蓮が、その創造性と独立心とによって、仏教を日本の宗教にしたのであります。他の宗派は、いずれも起源をインド、中国、朝鮮の人にもつのに対して、日蓮宗のみ、純粋に日本人に有するのであります。


仏教はそれまでインドから日本へと東に向かって進んできたが、日蓮以後は改良されて、日本からインドへ、西に向かって進むと日蓮は語っています。これでわかるように、受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でありました。闘争好きを除いた日蓮。これが私どもの理想とする宗教者であります。