13.華僑「東洋のユダヤ人」

華僑 / Overseas Chinese

東洋のユダヤ人


概要


華僑は中国生まれ、もしくは中華人民共和国や中華民国(台湾)外へ移住した中華系の人々のことである。


海外に移住した中国人を「華僑」と呼ぶようになったのは、中国人が大量にそして組織的に海外に移住するようになった19世紀末である。

 

19世紀末清朝では、社会の混乱に自然災害が重なり、耕す土地すらなく、残された財産は己が肉体だけといった農民が急増し、これまで禁止していた海外移住を解禁することになった。解禁するや、広東、福建一帯から大量かつ組織的な海外移住がはじまった。


ここに海外に僑(かりずまい)し、出稼ぎ生活を送る華(ちゅうごくじん)である「華僑」が誕生することになる。日本では、横浜と神戸が華僑が多く移り住んできた町で中華街として発展した。

血縁・地縁


華僑の特徴は血縁・地縁である。裸一貫で財を築く者が現れるや、血縁・地縁を頼りにその周辺に多くの華僑が集まり、商業集団が生まれる。このサークルを中心に血縁・地縁・業縁を紐帯とする華僑団体が誕生し、華僑社会を守り、維持・運営していくことになる。


初期の段階での華僑成功のカギを1つ挙げるとすれば、血縁・地縁・業縁を軸とした互助組織ということになる。だから、彼らは海外でも、彼ら固有の言葉だけではなく、日常生活、冠婚葬祭、生活習慣、生活文化までをも、がんなに守ったのであり、その多くは現在に継続している。

 

僑団(華僑団体)、華報(華字紙)、僑校(華僑学校)。この「僑社三宝(華僑社会の3つの宝)」さえ守っていれば、「四海為家」だったのである。(参考文献:華僑コネクション 樋泉克夫)

客家


華僑は大きくわけて、広東系、福建系、潮州系、海南系、そして客家系の5つからなる。


全華僑のうちで、「東洋のユダヤ人」といわれるのが客家系である。客家人の占める割合は約8パーセントだが、その8パーセントの客家が握っている経済規模は、華僑経済のほぼ30%以上にあるという。日本でも約30万人の華僑がいるとされているが、そのなかの約5000人が客家である。

 

客家が大きな影響力をもっているのは、中国大陸だけではない。中国の最高指導者鄧小平が客家人であることはよく知られているところだが、台湾の李登輝元総統、さらにシンガポールのリー・クアンユー前首相もまた客家人である。それはすなわち、中国大陸、台湾、シンガポールというアジアにおける「三大中華国家」の実権はすべて彼ら客家人が握っているということなのだ。

 

客家とはもともとは戦乱や迫害に追われて、中国大陸を北から南下していった漢民族の流民の末裔、中国人の中のマイノリティである。中国では、歴代の各王朝が混乱・崩壊などするたびに、大量の難民が発生した。難民は食を求めて、揚子江をわたって南下していった。この難民の末裔が客家といわれる人である。

 

彼ら難民は当然ながら、先住民の激しい拒絶反応にあい、追い出されることになる。結果的に山のほうにおいやられていった。客家の「客」とは、この南下してきた客人すなわち「よそ者」を意味する言葉である。

 

客家の特徴は、彼らが迫害された結果得た団結精神とリーダーシップである。世界中に散らばっている客家たちは、各国に相互扶助組織をつくっている。客家は漢民族のもっていた古い性格、文化、習慣をよく保存している。あたかもユダヤ人が2000年昔にイスラエルの地を追われて、なおかつヘブライ語やユダヤ教を守り続けて現在にいたったように、彼ら客家も千数百年の昔から漢民族のなかにありながら、自分たちのアイデンティティを守ってきたので。客家が中国のユダヤ人と呼ばれるゆえんはここにある。

 

その徹底した現実主義にある。客家人はイデオロギーにとらわれることなく、現実の利益を最大限重視する。客家のあいだで昔から教育を重視する気風があったことも重要である。彼ら客家の住んでいた山のなかの乏しい畑では、一家を食わせることはできない。そこで客家の人々は、何はともあれ子供に字を覚えさせた。中国では昔から、字を知っているということは、最低限の生活が保証されることを意味していたからである。

 

しかし、何といっても客家の人々が最大の努力を傾倒したのが科挙試験である。客家の科挙の合格率はきわめて高く、普通の漢民族の6倍ぐらいであったという。

 

また、客家はほかの漢民族から蔑視されており、特定の職業にしかつけない場合が多かった。そこで客家人の職業といえば、官僚、軍人でなければ、質屋、金貸し、黄金製品の売人、土建業というところに落ち着ていくのである。しかし、金融業につくことが逆に、客家人が経済力をつけて、華僑として大成功をしていく大きな基盤となったのである。

タイ最大の華僑 陳一族


タイの老華僑が陳弼臣。タイ名でチン・ソーポンパニット、彼こそ、東南アジア最大の地場銀行である「バンコク銀行」を一代で築き上げた人物なのである。


バンコク銀行は、タイにある地元十六商業銀行中、資産、貸出額、預金額のすべてがトップ。いずれも30%前後のシェアを押さえる。たとえば総資産は、89年末の時点でタイの国家予算より500億絵バーツほど多く、二位の銀行の約二倍に相当する四千億バーツ。資金調達能力は、全商業銀行にファイナンス・カンパニー、政府系特殊金融機関を加えたとしても、その全体量の25%を下ることはない。


単純に表現するなら、バンコク銀行はタイの国家予算を大きく上回る資産を持つだけでなくタイ企業の4分の1ほどの企業に融資し、経営に大きく関与していることになる。いまバンコク銀行が融資先から資本を引き上げたとしたら、華僑・華人系のみならず、タイの有力企業の大半は経営破綻をきたすともいわれる。

 

現在のバンコク銀行の会長は陳有漢(チャトリー・ソーポンパニット)。弼臣の次男で元上院議員。タイを訪れる政府要人は、彼を表敬するのが慣例となっているようだ。有漢の周辺には、大蔵次官、商務大臣などを経験し、現在ではバンコク銀行系列の亜洲信託で社長を務める李創才、旧ソ連のたいがい経済関係銀行などと共に総合商社ASPACを設立した劉家光、タイの農産品市場に強い影響力を持ち、政府の米輸出行政を左右するといわれる胡玉鱗、海南島進出に強い意欲を見せる一方、バンコク近郊で大規模不動産プロジェクトを進める呉多禄、製鉄・不動産を中浸透する新興企業グループSSPを率いる李石成などが集まっている。


有漢より若い兄弟たちは、陳弼臣慈善基金会を運営し、タイの環境保護運動のリーダーの一人でもある鳳ロンを除き、それぞれ系列の保険、金融会社を経営している。

 

有漢の兄、つまり陳一族の長男である有慶は香港に住み、一族の香港拠点でもある香港商業銀行で会長兼社長も務めている。次男をバンコクに住まわせバンコク銀行を譲り、長男を香港に置いて一族の海外拠点を任せる。

 

晩年の弼臣は、一国一人を原則として、ASEAN各国の有力華僑・華人系経済人と非公開の定期会合を開いていた。バンコク銀行は「タイ最大の商業銀行」から、いまやASEANの華僑・華人系資本のリーダーへと脱皮した。