02.未来学「未来を推論する学問」

未来学 / Futures studies

未来に発生しそうな事象を推論する学問


概要


未来学(英語:Futures studiesまたはfuturology)は、将来に発生する可能性がある出来事や世界観を推論する学問である。

 

歴史から過去におけるさまざまな事象のパターンや文脈を研究した上で、未来に発生しそうな出来事を想定するのが基本的な思考方法となる。


学問においては、芸術と科学のどちらに分類するものか議論されており、現在のところ歴史学と並行する学問分野か、社会科学の分科とみなされている。


細かく専門分野が作られ、より狭義的な方向へ向かっていく物理科学とは反対に、未来学は歴史学や社会科学を中心にして人口学・環境科学・経済学・政治科学・民俗学など、さまざな学問分野をクロスオーバーして世界システムを考える広義的な科学となる。


未来研究を実際に行っている人々は自らをフューチャリスト(futurist)と呼ぶ。

未来学の歴史


ギリシア・ローマ時代の未来学


デルフォイの巫女
デルフォイの巫女

人類が誕生して以来、未来への関心は人間の生活の中で常に最も重要な位置を占めており、古代から洋の東西を問わず、さまざまな神秘的手段をもって、未来を予言する試みが繰り返されてきた。


古代ギリシャでは、巫女がアポロン神殿で神々の言葉を伝える役目を果たしており絶対的な権力を持っていた。農業を中心とした経済から政治、文化、日常生活のあらゆる局面において、巫女のお告げが頼りにされてきた。


当時は、科学的な根拠もなく、また、理解が困難なメッセージも多々あったようだが、それが神秘的であればるほどもてはやされた。古代の巫女こそ「未来学」の元祖といってもよいだろう。


未来に焦点を置いた世界最古の予言書はエジプトの「死者の書」と言われている。これは「死後、この世に再び戻ってくる」という輪廻思想や、それに基づく「来世が現世よりも良くなるためには、まず、今現在の生活を正す必要がある」という教えが書かれたもので、死後の世界(未来)に備えるための歴史上初の文献である。


紀元前5世紀には、アテネにツキジデスが登場して、歴史の概念を一変させた。過去の戦争の史実を丹念に積み上げることによって未来の戦争に備えるという発想が初めて生まれた。それまでの歴史はヘロドトスに代表される叙事詩的な語り伝えでしか歴史は利用されなかった。


しかも、自分たちの歴史だけでなく、自分たちが直接体験した戦いのみならず、異なった時代、異なった地域での戦闘の歴史を知ることによって、自分たちのとるべき選択肢が広がったという点が特筆に値する。ツキジデスの戦史を契機に、戦争の仕方だけでなく生活様式や文化も大きく変化しはじめた。


プラトンの時代には、未来への欲求が具体的になり始めた。現実的なレベルで理想社会をいかに実現するかというテーマが関心を呼ぶことになり「ユートピア論」が生まれ、理想の国家、理想の憲法、理想の教育が論じられるようになった。しかもプラトンの偉大さは、現在の我々の政治的問題でもある「個と全体の利害の矛盾」という概念に早くも注目しており、そのバランスの取り方について思考をめぐらしていた。


しかし、ローマ帝国の崩壊とともに、未来学の動きも一時頓挫した。中世の封建時代はキリスト教世界観に覆われるようになったため、人間の未来に対する希望も封鎖することになった。



SF小説と未来学


西暦2440年
西暦2440年

未来学の暗黒時代が打ち破られたのは、大航海時代になってからである。新大陸アメリカの発見は再びヨーロッパの人びとに未来を考える力を復活させた。


産業革命の進展や植民地政策の拡大が相まって、ヨーロッパは世界制覇に向けて乗り出していくのである。その背景には、人口の増加や先進的な武器の開発が大きく貢献している。


ここにきてプラトンが唱えた「ユートピア」国家の実現を科学技術の発明を通じて具体化することができるという気持ちが広まってきた。この時期、フランシス・ベーコンは「ニューアトランティス」という著作を発表し、架空の島ベンサレムに、科学の粋を結集した理想の社会を描いてみせた。


しかしベーコンの科学万能主義は楽観論におされ、プラトンが提示した「同時にネガティブな作用を予測する」という発想はないがしろにされてしまった。環境破壊や戦争の激化などまだ気づく時代ではなかった。


このとき1冊の未来に関する本が出版された。フランス人のセバスチャン・メルシエールが1770年に「西暦2440年」という本を出版した。これは、ヨーロッパで広まった科学万能主義を実践すると、自分たちの子孫にどのような影響が及ぶか、ということを解説したものである。

 

物語は18世紀に生きていた主人公が、長い冬眠生活のあと、突然目を覚ますと、いきなり25世紀になっていたという設定である。世界は戦争のない平和な国々ばかりで、フランスとイギリスの長年にわたる対立も失せ、今では緊密な同盟関係となっていた。国民は皆豊かになり、ホテルなどは消失し、旅をしても、どこの家庭でも旅人を暖かく迎えてくれるようになっていた。男女の恋愛も自由で平等になり、ラテン語やギリシャ語も教えなくなっていた。

 

見方によっては歴史上SF小説のはしりであったいえるものである。ただし、その内容があまりに過激だっただめフランスでは発禁となり、オランダで匿名にして発行ができた。



本格的な未来学の芽生え


ニコラ・ド・コンドルセ
ニコラ・ド・コンドルセ

フランス革命期に活躍したフランスの数学者で政治家のニコラ・ド・コンドルセが、現代から見れば未来学の古典とも評価できるような書を著した。それが1795年に死後出版された「人間精神進歩の歴史」である。


アメリカ独立戦争、奴隷制度廃止運動などの歴史的変化を背景に、彼の楽観的未来論と進歩に対する確信が描かれている。


コンドルセの特徴は文明論に言及していることである。彼は世界の文明の歴史を十期に区分し、第十期目を未来に置いている。その上で、「この十期目の文明は知識や情報が主役となる」と予言している。さらに「政治や倫理上の誤りの原因が、物理や自然の法則の誤用による」という卓見を持っていた。これは、今日からみても極めて正確な分析である。


また、当時全盛だったヨーロッパ列強による植民地支配の終焉さえ見抜いていた。加えて、彼はそれらの予測の理由付けもきちんと行っているのである。すなわち、ヨーロッパ自身がそれまで獲得してきた知識そのものが、植民地にも同様に広まることによって、自由や平等の価値がより多くの人びとに浸透し、結局独立を目指す国が増えることになると判断していたのである。


コンドルセは科学の進歩に関する分析でも、農作物においては技術の改良によって、単位面積当たりの収穫量が飛躍的に増大することや、同時に人口の増加も指摘しており、その結果、産児制限が世界的に求められる時期が必ずやってくると予測していた。


このように、ンドルセの予測は特定の条件を見極め、技術と人間心理の両面からの分析、つまり心理学と社会科学を通じて未来社会の理論的推論を導くという方法を初めて行ったという意味で画期的なものであった。ジャック・アタリをはじめ今日、未来学者が採用されている未来研究は、この方法が基本になっているといっても過言ではない。



空想科学的未来主義


19世紀初頭から始まった産業革命とともに、当時の人びとのあいだに来るべき未来社会への期待が高まりはじめた。これらの動向を背景に、ヨーロッパでは科学の進歩を題材にした童話や小説が登場してブームになりはじめた。


デンマークのアンデルセンは1852年、「未来の旅人」という物語を書いた。これはアメリカの若者が蒸気で空を飛ぶ機械にノリ、ヨーロッパを8日間で旅行するという物語である。


また、ジュール・ベルヌは19世紀の科学知識を駆使した本格的SF小説を文学として確立させた。それによって、職業としてのエンジニアや科学者が一躍時代の花形となり、それまでナンバーワンだった職業軍人の人気を奪ってしまった。


ジュール・ベルヌの偉大なところは、常に、科学的研究を行いながら、小説を書いていたことである。当時、まだその存在は稀少金属として知られてはいたが、誰も実用化に思いを至らせなかったアルミニウムに着目し、月ロケットの素材に使うという発想は、時代を先取りしたものであった。


産業界では彼の小説をヒントを得て、その後アルミニウムの開発と実用化に取り組み始めたのだから、その経緯は未来学者ジュール・ベルヌの面目躍如たるところだろう。未来研究が現実の産業界や科学界に影響を与えるほどのパワーを秘め始めたのだ。


1888年にはイギリス人エドワード・ベラミーが全世界に向けて「ユートピア」の概念を更に一歩進めることになった「西暦2000年を振り返って」という本を著した。このストーリーは1887年に深い眠りに陥った主人公が2000年にアメリカのボストンで目覚めるという設定で、2000年には人間の欲求がすべてに満たされた豊かな社会になっているというものである。当時はマルクスが「資本論」で、資本主義の未来を描いた時期でもある。


1892年にはフランス人チャールズ・リケットが「百年後」と題する学術書を発表した。そのなかで、リケットは世界人口の成長に関する統計的予測を行っている。

 

「来たるべき百年の間に、ヨーロッパの出生率は順次低下し、1992年には人口の増加したアメリカとロシアが世界最強の国家になっている」との結論を引き出した。それもアメリカとロシアの人口はあわせて6億人となり、ヨーロッパ全体の人口を大きく上回るようになると述べている。この予測は、まさに百年後の現在、非常な正確さをもって合致しているので驚かされる。


しかも、エネルギーの供給見通しについても「石炭から石油の時代を経て、太陽エネルギーや地熱の利用の時代が来る」ことにまで言及している。

 


ディストピア


第一次大戦後には、従来のユートピア論に代わる新しいイデオロギーも登場してくる。それは共産主義という未来像であった。若きアメリカ人ジョン・リードは当時新生ソ連を実地見学し「これこそ人間の理想の未来である」と感激し、後年、アメリカ共産党を創立することになった。


しかし、あらかたの知識階層は全体主義の台頭による恐怖政治の臭いを感じ取り「人間の未来は暗くなった」というペシミスティックな気持ちに覆われた。それが一般市民の間にも蔓延した。この現象は「アンチ・ユートピア」あるいは「ディストピア」と呼ばれた。


この暗い心理状況は文学にも即反映されることとなった。ユージン・ザミャーチンがロシア革命の三年後に書き上げた「われら」という作品は、初期の典型例である。未来の世界は一つの全体主義国家が統治するようになり、国民は全て番号で呼ばれ、個人の存在は悪であり、全体としての利益のみが優先するという、ソ連の行く末を暗示するような未来小説であった。


いずれにせよ、この時期、世界のあちこちから、このようなディストピア小説が出現するようになった。その代表的作品はアルドス・ハックスレーの「ブレイブ・ニューワールド」、ジョージ・オーウェルの「1984年」、カート・ボネガットの「ブレイヤー・ピアノ」、アンソニー・バージェスの「時計じかけのオレンジ」などである。



H.G.ウェルズと未来学


H.G.ウェルズ
H.G.ウェルズ

アメリカも空前の技術革新のラッシュを享受する体制に変わりつつあった。世紀の変わり目ということもあり、実に多くの論者や研究者が未来予測の戦列に加わり、さまざまの未来小説や未来分析が飛び交った。そのなかでも現在でも燦然と輝く影響力を放っているのが未来小説家のH.G.ウェルズである。


彼は未来小説家として余りにも有名になってしまったが、一方で、社会の変化の動向を丹念にフォローし、その結果を学術論文としてまとめる作業も行っていた。

 

1901年に発表した「アンティシペイションズ」という評論集で、ウェルズは運輸、コミュニケーション、都市計画、戦争などあらゆる分野における「変化の要因」を分析し、独自の技術観を提示している。馬車が自動車に取って代られること、イギリスやヨーロッパが電話や通信網で結ばれる時代が来ること、など先見性が随所に見られた。ウェルズの主張は


過去を知ることと未来を創造することは同じことなのだ。人間が未来に関心を持っている限り、未来を知る手掛かりは常に人間の中に隠されている。科学の進歩は過去の発掘に大きく貢献したのみならず、未来の発見にも役立つ力を秘めている。そのためにも、政治、経済、社会、宗教、倫理、科学などをシステムとして総合的に捉えた未来研究という学問を一日も早く確立する必要がある」


というものである。このウェルズの登場と活躍により、未来研究は新しい段階を迎えたと言える。なぜなら、彼は世界に対し「現在を未来の始まり」として捉える視点を与えたからである。

 

ウェルズは未来研究に飛躍をもたらしたが、それは第一次世界大戦の勃発によって、再び頓挫してしまうことになった。それまでの未来学は、あくまで「ユートピア」指向であり、未来はひとえに夢と希望の対象だった。それが一夜にして、「未来」が戦争という暗黒のイメージに転落したのである。


その結果、「現状分析においても、良い面ばかりに目を奪われてはいけない」との反省が生まれた。物事のネガティブな側面を必ず把握しておかねば、大きな失敗に捉えられるとい痛い教訓を得たのである。

 

ウェルズ自身も第一次世界大戦後の1920年に「世界史概観」を著し、人類の歴史は「教育とカタストロフィー(大惨事)の競争である」との認識を明らかにしている。彼は、これを契機に、将来発生しうるネガティブな事態へも適切に対応するための未来教育に着手するのだが、残念ながらその25年後に、第二次世界大戦が原爆の投下によって終わりを告げるにいたって、「もはや人類に望みをかけるのをやめる」と宣言することになる。ウェルズは「人類は教育とカタストロフィーの競争において敗れた」と絶望感に苛まれ、彼自身の中での未来学に終止符を打ったのであった。


ウェルズは1913年の時点で、原爆の発明を予測し、同時にそれを使った世界戦争が起こる近未来小説を発表しており、それを読んで触発されたドイツの物理学者レオ・スジラードが1934年に原子爆弾の理論を完成された経緯があったため、未来研究そのもの意欲を無くさせることになった。


ウェルズにすれば、原爆が実際に使用されることがないようにと願って、人類に警告を発する目的で、小説を書いたのであるが、現実には自らの意図と逆のことが起こってしまった。当然のことながら、ウェルズは深い絶望感に襲われた。これによって、イギリスのSF協会は当面の間、閉鎖されることになった。ウェルズの落胆と絶望は次のような遺言となって、後の世代の課題として引き継がれることになった。


「進化する科学技術の影響が余りに大きいことに気づかねばならない。科学の進歩をどうやって人類の未来にとってプラスに使うべく予測を立てることができるかが肝要である。」



実存学的未来学


第二次大戦後、1950年代から70年代にかけては、未来研究は大学の粋を飛び越えて、社会のあらゆる分野に支持者を獲得しだした。未来学を個人が活用するスタイルが生まれ始め、そこからジャン・ポール・サルトルの実存主義が生まれた。


サルトルはフランスの未来に責任を持つのは、強い意志で武装した個人主義であると主張し、過激ともいわれる自由を求めた。未来を創造していく作業で最も大切なのは個人の自覚であるというアピールを繰り返した。


一人一人が未来の創造主であるとの発想は、のちにアメリカで大流行することになる。それ以前の西洋の未来感覚は、過去によって未来が規定されて発展していく、という発想であった。しかし、実存主義者たちは、それを覆し「未来は過去に規定されていない処女地であり、各自の選択で自由に創りあげていくことができる」という新境地を開拓した。


1950年代に一世を風靡したフランスのガストン・バーガーは、この実存的未来学と国家政策を結びつけた。彼は「過去の歴史ではなく、リアルタイムで今現在、世界各国に起こっている思想や文化の変化から未来の潮流を学ぶ」とし、彼は常に「古いものと新しいものとの確執の中から創造的な思想が生まれる」と説いた。彼はフランス教育省の高等教育町長となり、国家政策にも直接関与するようになる。


そして、多くの協力者のバックを得て、1957年にはパリに「国際未来展望センター」を設立する。「未来とは自ら準備し計画していくものである」という実存学的未来学の発想は、彼の死後に設立された「ガストン・バーガー協会」に集まった政府の閣僚や各界の指導者によって受け継がれている。



ランド研究所


戦後のアメリカにおける未来研究は、東西冷戦を背景に、軍事的関心から強力に推進された。その中で未来学のスターも誕生した。ハーマン・カーンである。


彼は「熱核戦争」で鮮烈なデビューを果たした。そこでの主張は「1945年以降、技術革新が五年サイクルで完全に一巡する時代となったので、現実的な軍事戦略を立てる際には、この技術開発の凄まじいスピードを念頭に置いてなければ、すぐさま時代遅れになってしまう」というものであった。


こうした背景から未来研究の組織化がおこなわれた。「プロジェクト・ランド計画」と呼ばれるものである。後に「ランド研究所」として世界に冠たるシンクタンクとなる。


ランドではさまざまな分野から専門家を集め、お互いに自由な環境で研究ができる場を作ったという点で、大きな注目を集めた。それまで一般的であった特定分野別の研究機関と違い、いわば「自然科学と社会科学の融合の場」となった。


このような新しい環境から幾多の未来研究の手法が生み出された。たとえば、今日でもよく使われている「シナリオ論」「デルファイ法」などがそうである。前者は未来の可能性を追求し、連鎖反応的に生まれる複数のシナリオを論理的に描く手法であり、新しい防衛戦略の理論的実証を行う際に多用された。後者は多数の専門家の知見を体系的に一本化することで、未来の発明が実現する時期やそのインパクトを明らかにしようとする技法である。


ランド研究所に関わる有名人を挙げておこう。ドナルド・ラムズフェルド(元アメリカ合衆国国防長官)、フランシス・フクヤマ(『歴史の終わり』の著者)、ジョン・フォン・ノイマン(ゲーム理論の創設者)、サミュエル・コーエン (中性子爆弾の発明者)、マーガレット・ミード(文化人類学者)


ランド研究所は、ゲーム理論、合理的選択論、フェイルセーフ、システム分析、限定戦争論、そして市場原理主義、議論や理念、そして人間の感情までも数値と方程式におきかえ世界を支配することにさまざまな理論をつくりだした研究所のなかの研究所となったのである。


ランド研究所に集まった人びとは、それぞれが独自の研究所を新たに設立する動きを見せた。たとえば、ハーマン・カーンは「ハドソン研究所」を、数学者で哲学者のオルフ・ヘルマーは「未来研究所」を、歴史家ヘンリー・デービッドと心理学者のマービン・エーデルソンは「システム開発コーポレーション」をといった具合である。


このように1960年代は未来予測の技法がレベルアップし、世界中に広まっていった時期であった。なお、ヘルマーはこの技法を使って、カイザー・アルミニュウム社から依頼を受けた未来予測ゲーム「ヒューチャー」を開発し、大ヒットとなった。このゴードンは1971年に未来研究をビジネスに直結させた会社「ヒューチャーズ・グループ」を設立した。主として、アメリカの政府機関や企業を顧客に未来予測を請け負っている。



アルビン・トフラー


1950年代から70年代にかけては、未来研究を専門とする組織が官民を問わず輩出した時代であった。それまで個人レベルでマイナーな存在であった未来学がメジャーな地位を占めるようになり、未来研究者が協力して活動を展開する環境が整ってきた。


1970年に出版された未来学者アルビン・トフラーの『未来の衝撃』は一般大衆向けに書かれた未来学研究本で、未来は世界の運行の「スピード」、つまり社会の変化する速度が異様に大きくなり社会システムはいたるところで機能障害を起こし、我々の心身は破壊されるという問題を扱ったものである。


未来が加速しているために、満足が得られるまで「待つ」のを嫌う傾向が強まっている。これからの変化によって、事業活動を行う組織が、恒久的か長期に続くものから、一時的で一度かぎりのものに変わり、店舗も一時的になる。ファッション、映画、音楽、評判の寿命が短くなるとトフラーは主張する。


この本は世界中でたちどころに600万部の超ベストセラーになった。その後も、現在までに3000万部が売れたという。


世界や社会全体を覆う変化の兆しが感じられるようになり、それへの備えとして未来学への期待が高まり始めた。未来志向型のシンクタンクの創設ラッシュ、ハーバード大学あじめ学術組織での未来研究グループの誕生、未来予測についての大学講座や関連科目の普及、オスロ、ベルリン、京都での「国際未来学会」の総会開催などである。



未来学とビジネス


1980年代に入ると、アメリカではコンピュータを駆使したシミュレーション手法や改良されたシナリオ技法を使用した、未来学のビジネスへの応用が活発化してきた。


特に、シナリオ論を多国籍企業の経営戦略に活用することを専門としたピーター・シュオルツやアメリカ人のライフスタイルの変遷から未来研究に新機軸を導入したアーノルド・ミッチェルらを抱えた「スタンフォード・リサーチ・インスティチュート(SRI)」はランド研究所の好敵手として影響をを増した。


中でも「SRI三羽ガラス」と異名をとったポール・ホーキン、ジェームズ・オギルビー、ピーター・シュオルツの共同作業になる『明日への七つのシナリオ』は、来るべき1990年代に世界が直面する技術、経済、マーケットの展開を大胆な予測手法で切ってみせた。


このように1970年代から80年代にかけては、欧米の大企業が自社内にこぞって未来研究部門を設けたり、外部の未来研究者を顧問としてまねき、長期戦略を練るようになった。IBMしかり、エクソン、ジェネラル・エレクトリック、ベルなど枚挙にいとまがない。


1つには、社会のニーズに応えねばならない時期に来たという認識と、今後の激しい変動に適切な対応を講じるための戦略作りという視点が必要になったからである。また一方で「将来の技術と人間との関係を明確に把握しておかねば企業経営に失敗する」との懸念を克服する手段として、未来学が脚光を浴びるようになったからでもある。



未来学年表


紀元前3000年頃:『死者の書』(エジプト):世界最古の未来志向文献。
2900年頃:『セネフォウの司祭』:社会規範を通じての生活改善。
神託政治、神秘主義の時代。

600年頃:イオニア自然哲学。
ヘロドトス:歴史学の祖。
ツキジデス:データ収集に基づく実証的歴史学。
中国では諸子百家の時代。
プラトン:霊魂の不滅を主張、イデア論。「ユートピア論」の原型。
紀元30年頃:キリスト教の未来観
395年:ローマ帝国、東西に分裂。その後封建時代。

未来学の暗黒時代。

1300年頃:羅針盤、火薬の発明。
1400年代:大航海時代。地理上の発見。
1450年:グーテンベルグ活版印刷術発明。
1516年:トーマス・モア『ユートピア』(イギリス)
ユートピア全盛の時代。
1627年:フランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス』(イギリス)帰納法の提唱。科学的経験論の先駆者。ベンサレム島の科学都市。『新オルガノン』。
1683年:フォンテネル『死者の対話』(フランス):ソクラテスとモンテーニュの架空の対話を通じて、未来への社会進歩思想を提唱。
1750年:タルゴット『人類の継続的進歩』(フランス)
1751年:ディドロ『百科全書』(フランス)
1763年:『ジョージ六世の治世、1900年から1925年』:匿名の作者による20世紀の生活描写が話題。
1769年:ワット、蒸気機関発明。
産業革命が理想社会の基盤となる、科学と産業の時代。
1770年:セバスチャン・メルシエール『西暦2440年』をアムステルダムで地下出版。母国フランスでは発禁。予言小説の草分け。
1776年:アメリカ独立。
1780年:ベンジャミン・フランクリンの未来礼賛論。(アメリカ)
1793年:マルキド・コンドルセ『人類の進歩の歴史的素描』(フランス)
1789年:マルサス『人口論』(イギリス)
1830年:マンチェスター・リバプール間の鉄道開通。(イギリス)
1851年:大英博覧会。
1852年:アンデルセン『未来の旅人』(デンマーク)
1859年:ダーウィン『種の起源』(イギリス)
1863年:ジュール・ベルヌ『気球による五週間の旅』(フランス)
1865年:ジュール・ベルヌ『月旅行』
1867年:マルクス『資本論』
1870年:ジュール・ベルヌ『海底ニ万里』
1871年:イギリス議会にて「石炭の埋蔵予測」レポート。
1876年:ベル、電話機発明。(アメリカ)
1879年:エジソン、伝燈発明。(アメリカ)1888年:エドワード・ベラミー『西暦2000年を振り返って』(アメリカ)。各地にベラミークラブが生まれる。
1892年:マックス・プレズナー『20世紀の偉大な発明:テレビの未来』(ドイツ)
1892年:チャールス・リケット『百年後』(フランス)
1893年:コロンブス新大陸発見400年記念世界博覧会(シカゴ)
1893年:エジソン、活動写真発明。(アメリカ)
1895年:H.G.ウェルズ『タイム・マシーン』(イギリス)
1901年:H.G.ウェルズ『アンティシペイションズ』
1914年:第一次世界大戦勃発。
ディストピアと共産主義の時代。
1918年:オズワルド・スペングラー『西洋の没落』(ドイツ)
1920年:H.G.ウェルズ『世界史概観』
1920年:ザミャーチン『われら』(ソ連)
1920年:コーラム・ギルフィランによる未来予測の方法論「メロントロジー」探求。
1920年:初の定期タジオ放送。(アメリカ)
1921年:レーニン「新経済政策」
1922年:ソビエト社会主義共和国連邦成立。
1924年:バートランド・ラッセル『イカルスあるいは科学の未来』(イギリス)
1925年:テレビジョン放送実験成功。(アメリカ)
1928年:ソ連第一次五カ年計画。
1929年:世界大恐慌。
未来研究の政策応用への時代。
1929年:フーバー大統領直属「社会動向研究委員会」設立。
1930年代:イギリスにおけるSF全盛期。
1932年:アルドス・ハックスレー『ブレイブ・ニュー・ワールド』(アメリカ)
1933年:ニューディール政策。(アメリカ)
1934年:アーノルド・トインビー『歴史の研究』(イギリス)
1935年:ファーナス『来るべき百年:未完の科学的進歩』(フランス)
1937年:全米資源委員会『技術発展の傾向と国家政策』
1939年:第二世界大戦勃発。
1942年:原子核分裂成功。(アメリカ)
1943年:「ナショナル・プランニング協会(NPA)」設立。(アメリカ)
1945年:H.G.ウェルズ『心の終焉』
1948年:「ランド研究所」誕生。(アメリカ)
未来研究シンクタンクの時代。
1949年:ジョージ・オーウェル『1984年』(イギリス)
1950年:朝鮮戦争勃発。
1950年:トルーマン大統領「資源政策委員会」
1952年:ユング『明日は既にここにあり』(ドイツ)
1957年:ソ連、世界初の人工衛星スプートニク一号打ち上げ成功。
1957年:ガストン・バーガー「国際未来展望センター」設立。(フランス)
1960年:「ヒューチュリブル協会」発足。(フランス)
1961年:ケネディ大統領「アポロ計画」発表。
1962年:アーサー・クラーク『未来のプロフィール』(イギリス)
1962年:アンソニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』(イギリス)
1963年:ピエール・マッセ「フランス1985年委員会」発足。
1963年「人類2000年会議」(ノルウェー)
1964年:ガストン・バーガー『未来展望の概念』(フランス)
1965年:ダニエル・ベル「西暦2000年委員会」委員長就任。(アメリカ)
1966年:「世界未来研究連盟」発足。(イタリア)
1967年:ハーマン・カーン『西暦2000年』(アメリカ)
社会に浸透する未来学の時代。
1967年「ツイン・オークス・コミュニティー」建設。(アメリカ)
1967年:ポーランド科学アカデミー「ポーランド2000年委員会」
1968年:「ローマ・クラブ」発足。(イタリア)
1968年:「未来研究所」設立。(アメリカ)
1968年:アーサー・クラーク『2001年宇宙の旅』
1969年:ニクソン大統領、国家目標研究補佐官グループ発足。
1970年:「環境保護庁」創設。(アメリカ)
1979年:アルビン・トフラー『未来の衝撃』(アメリカ)
1970年:第一回国際未来研究会議。(日本)
1971年:「フューチャーズ・グループ」設立。(アメリカ)
1971年:パルメ首相、未来研究担当大臣任命。(スウェーデン)
1971年:フレッド・ポラック『未来の前兆』(オランダ)
1972年:ローマ・クラブ『成長の限界』
資源、環境問題と未来学の合体の時代。
1973年:石油ショック。
1973年「ノエティック・サイエンス研究所」設立。(アメリカ)
1975年:アル・ゴア上院議員「未来研究議員連盟」会長に就任。(アメリカ)
1976年:マックへイル『未来ディレクトリー』(イギリス)
1977年:カーター大統領「グローバル2000年」プロジェクト。
1978年:「中国未来研究協会」発足。
1970-80年代:欧米企業での未来研究ブーム。女性未来研究者の台頭。
1981年:ドーガル・ディクソン『人類以降』(アメリカ)
1982年:SRI『明日への七つのシナリオ』(アメリカ)
1985年:スティブルフォード『サード・ミレニュウム』(イギリス)
1980年代後半:地球環境問題と人間の意識の相関性が注目される時代。
1986年:ピーター・シュオルツ『長期的視点』(アメリカ)
1987年:「グローバル・ビジネス・ネットワーク」設立。(アメリカ)
1988年:第十回「国際未来研究連盟」北京大会。(中国)
1988年:ウィリス・ハーマン『グローバル・マインド・チェンジ』(アメリカ)
1989年:ウェイガー『未来の小史』(アメリカ)
1991年:ストラウス『アメリカ未来の歴史:1584年から2069年まで』(アメリカ)
1991年:「全ロシア未来研究センター」設立;
1992年:ローマ・クラブ『限界を超えて』
1993年:「世界未来学会」ワシントン総会。(アメリカ)
(知的未来学入門 浜田和幸より)